2017年11月9日木曜日

柚子の季節

秋晴れの澄んだ青空を背景にして、濃緑の中にレモンイエローの実。
爽やかなコントラスト。いい風景だ。
柚子が収穫時期を迎えた。
我が常陸大宮市東野地区は、柚子が伝統的に禁忌作物とされている。なので我が家にも柚子の木は無い。毎年この時期になると(事情を分かってる)他地区の親類から『すこしもとりにきたら(い)がっぺ』(= 僅かでも取りに来たら良いよ)と声が掛かる。
   ※()内の「い」は、本人は発音しているつもりだがほとんど無音というのが
    茨城弁ネイティブスピーカー。特にシニア層以上。
遠慮なく頂きにあがった。
豊かな実りの収穫ほど幸せを感じるときはない。

捥いだ黄色い球は何とも芳しい香りを発し、魔法のごとく我を魅了してやまない。
毎年大量の柚子玉の皮を剥ぎ、冷凍保存しておく。ラーメンにトッピングすると数段高級な味になるから不思議だ。うどんや鍋物にも最高。・・一年中この香りに憑りつかれている我が身である。

脚立に登って実を取っていると、枝に白いものを発見。


なんとニホンミツバチの巣である。「自然巣」と呼ばれる解放空間に作られる巣だ。外敵からの攻撃に合い易いために、めったに作られない。これはだいぶ前に放棄されているようだが、ニホンミツバチのものに間違いない。
初めてみる自然巣。予期せぬ発見に少々興奮してしまった。
この柚子の木の場所は捕獲有望な場所と踏んでいて、去年・今年と木の根元に捕獲用巣箱を設置したが、見事に外された。が狙いは正しかったわけだ。来年こそは捕獲できるかも知れない。

それにしても、もっといい条件の巣箱がすぐ下にあるのに、わざわざこんな高い枝に巣を作らなくてもいいだろうに・・とひとりごち。こちらの思いはなかなか彼女たちに伝わら無いようだ。彼女たちミツバチの気持ちを理解するにはまだまだ修業(=強い思い)が必要らしい。ちなみに柚子の花言葉は『恋のため息』であるそうな。
木の根元に巣箱(トタン屋根のもの)を置いていたが
嫌われたようだ

2017年11月8日水曜日

胡桃拾い

今日、今年最後の胡桃拾いをしてきた。今年も豊作だ。


このような草の中に隠れているのを探し出す
収穫はゆうに約500個超えているだろう。
拾って洗った胡桃と拾ったばかりの青カゴの胡桃
(手前の白い粒は果肉の除去作業が終わったギンナン)
本格的に実を付け出したのは去年で200個ほどだったが、今年は倍以上の実を付けたようだ。

これから殻を割って中身を取り出す作業となる。
殻割りはちよっと面倒な作業だが、胡桃をローストしたのちに自家産はちみつに漬け込んでつくる「Honey Nuts」の材料であり手が抜けない。
昨年、試作してみたところ予想外に変好評だった。
なので今年はもう少し作る量を増やす計画でいる。そのためのはちみつも手当て済みだ。

間もなく柚子が収穫時期を迎える。
柚子を使って、柚子皮はちみつ漬けや柚子皮はちみつジャムも作る予定だ。

これらの材料は、全てが自家産のもの。
完全無農薬で有機栽培(農薬と化学肥料は過去一度も施したことが無い)のものだし、はちみつはニホンミツバチの百花蜜で純粋・非加熱・生。
これでもか、というくらいの素材だ。う~ん、贅沢だよなぁ。

秋の里山の収穫は、心まで幸せにしてくれる。

2017年10月1日日曜日

はちみつ日和 (前田京子著 マガジンハウス)

マガジンハウスから『はちみつ日和 花とミツバチと太陽がくれた薬』(前田京子著)が発刊された。

前田京子氏の前著『ひとさじのはちみつ 自然がくれた家庭医薬品の知恵』は10万部を超えるベストセラー。その待望の続編である。前著に収めきれなかった話や読者からもらった質問への回答などが満載で、「家庭医薬品としてのはちみつ」というテーマはそのままに、前著以上にはちみつについて熱く語っている。
「はちみつはカラダにいい」ということを、難しい学術文献を基にしながらも軽妙なタッチで、かつご自分の体験を交えて読みやすく説明してくれている。
前田京子氏は、自分が納得できるレベルまでトコトン調べる・体験するという方で、驚くほど探求心が旺盛であり強い凝り性の方だ。脱帽である。小生にとってもとても参考になる一冊。
皆さんもぜひ前著と併せて一読してみてほしい。ますますはちみつに魅せられるはずだ。

特に、百花蜜をお勧めしている箇所は必読だ。わが「玉川里山はちみつ」のことを書いてくれている(・・・ような気がしている)。

   【目次】
    1.「我が家のはちみつ」をどう選ぶ?--1
      自分の「味覚」の使い方
    2.「我が家のはちみつ」をどう選ぶ?--2
      「薬」になるはちみつの条件・おさらいと、
      基本の栄養剤=百花蜜のすすめ
    3.ミツバチといっしょに元気になろう
      我が家でできるアピセラピー  はちみつ編
    4.「はちパン」と「はちミルク」が、からだを作る
      我が家でできるアピセラピー  花粉・ローヤルゼリー編
    5.ハチの住居のセキュリティー
      我が家でできるアピセラピー  プロポリス・みつろう編
    6.ハチの幸せ、元気なはちみつ
      ミツバチのおやつのことを考える
     
      (※)アピセラピーとはミツバチ療法のこと

~~本書 「あとがき」より
 私たちにとっては、調子がいい時も悪い時も、毎日がはちみつ日和だ。
 この朝晩のひとさじで、人は今日一日を元気に乗り切れる。
 だから、思う。
 今日がミツバチにとっても、どうかはちみつ日和であるように。
 そしてきっと、このひとさじが、百年後にもあるように

2017年9月29日金曜日

【悲報】スズメバチ被害続出

例年になくスズメバチの活動が活発だ。飛び交うスズメバチがやたらと多いように感じている。そんな折、あまりのしつこい襲来に根を上げて逃去する群れが今日も発生した。
なんとも悔しい。
スズメバチトラップにも多数かかるものの
焼け石に水だ
ネズミ取り粘着シート設置・スズメバチトラップ設置・侵入防止金網設置・・など等、できる対策は全て実施してスズメバチシーズンを迎えたつもりだった。
だが、予想を上回る勢いで巣箱を襲ってきていて、もはや打つ手がない。

4月~5月の捕獲シーズンに、ひとつの群れを捕えるだけでも容易ではない。
その貴重なハチ達なのに、ここまできて逃げられてしまうこの悔しさ半端ない。

越冬してくれれば、その群れから来年春になると分蜂してくれるので、新しい群れの捕獲チャンスがぐんと拡大する。そんなこともあり、この半年近く大切に群を管理してきた。
思い入れも強く、我が子のようにカワイイこのハチたちを何とか助けてやりたいのだが、これ以上のスズメバチ対策に手間暇をかけたり、追加投資はできない。
悔しいが、事態を冷静に受け入れるしか無いのが現実だ。

できることはただひとつだ。
斯様に襲われて、逃げられて、それでもまだたくさんの群れが残るように、シーズン初めにできるだけ多く捕獲するしかない。つまりスタート時の総数(母数)を大きくしておくことがすべてだ。
たくさん捕まえる、そのためにたくさんの捕獲用巣箱を置く==捕獲可能性を高める、だ。

今年もまたこの悔しさをバネにして、強い闘志を燃やし新たな巣箱作りに着手することになる。

2017年9月21日木曜日

スズメバチシーズン

スズメバチシーズンの真っ最中だ。

この時期になると毎年のように、遠足に出かけた生徒さんやら先生やらがスズメバチに襲われたという、痛いニュースに接する。こと生命にかかわる話であり、けっして侮れないキケンなハチ達である。

人間にとっても生命を脅かす厄介な存在だが、ミツバチたちにとってはより深刻で忌避したい存在である。スズメバチはミツバチの巣箱出入り口でハチが出てくる・帰ってくるのを待ちかまえて捕食する。ある意味、効率的で賢い狩猟法である。
あまりにひどいスズメバチ攻撃が続くと「ここは危険な場所。営巣には不適格」として、ミツバチはいとも簡単に巣を放棄してサッと逃去してしまう。われわれが次の日に巣箱が空っぽなのを見てガッカリしてため息・・というのがお決まりのパターン。

取りうる対策として、スズメバチトラップを仕掛る、ネズミ取り粘着シートを取り付ける、巣箱入り口に金網を張り侵入を防ぐ、といくつも並行して施しているが、突然の逃去は毎年のように繰り広げられる悲しきドラマである。今年も既に2箱がスズメバ被害にあい逃げ去っている。だからといって四六時中巣箱を監視して厄介者を追い払ったり、巣箱全体を金網で覆うようなことも現実的ではなく、いわばお手上げ状態である。
  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆
先日、常陸太田市金砂郷地区に置いてある巣箱の定例巡回の折に、そこのジイちゃんからはじめて『おぢゃでものんでぎな』(※)との誘いがあった。
縁側で茶を飲みながら、しばし語らいの時間を持ち、いろいろな話を伺った。

「お茶を飲んでいきなさい」というお誘いの意。
  「おぢゃ」はお茶のこと、「
のんでぎな」は「飲んで行きな(さい)」が訛ったもの。
  このフレーズは、額面通りの社交辞令としてのお茶のお誘いの意味だけではなく、
  喫茶を共にする仲間としてお前に接してあげよう、認めてやろうという意味合いがある。
  つまり、背景が良くわからないよそ者であるお前(=小生)ではあるのだが、
  まあ出入りくらいは認めてやろうじゃないかということ。

  ちょっとだけお近づきになれた証である。田舎コミュニティーへ参加の第一歩とも言える。
  この第一のハードルを超えるといろいろ情報が入るようになり活動がし易くなる。


大正15年生まれの91歳であること。召集されて海軍に入ったこと。下っ端の兵隊はビンタばかりの毎日だったこと。戦地に向かう予定の前々日に終戦になったこと。復員後は農業に励み、一男一女を懸命に育てたこと。バアちゃんを去年亡くして今は一人暮らしをしていること。体はどこも悪くなく、目も耳も頭も大丈夫であること。心身ともに健康でいられるのは自然に逆らわずに生活する・無理はしないことなのだそうだ。百姓は生き甲斐だと言い切る元気爺さん。我が亡き両親とほぼ同じ世代の方なので、頷きながらきながら話に聞き入った。

ふと見上げると、縁側正面にあるアマヤ(納屋)の梁の下に大きな茶色いボールが2つもあるのが目に入った。直径30センチはあろうかというスズメバチの巣だ。一方の巣は今年のものらしく盛んにスズメバチが出入りしている。ジイちゃんに聞くと「去年はひとっつだったがら、新しぐ今年つぐったんだっぺ(作ったのだろう)。あんてに高いとにあんだし(あんなに高いところにあるのだし)襲ってくっごどもあんめがら(襲ってくることもないだろうから)、このままでかまめ(構わないだろう)」と言う。

この敷地内のミツバチ巣箱に数多く群がるスズメバチは、この巣から飛来していると考えてよさそうだ。
右 : 去年のものでスズメバチの出入はない
左 : 今年のもので盛んに出入りがある

ミツバチを飼っている立場からすればスズメバチの巣の撤去・駆除を是非お願いしたいところだが、ジイちゃんの話では駆除には3000円掛かるという。回覧板(市の広報誌)に書いてあったという。市のホームページで確かめるとその通りだった(爺ちゃんの記憶力・・・すごい!!)。
  (⇒ 常陸太田市HP 「ススメバチの巣の駆除について」)

当方の都合で、無理を言って巣箱を屋敷内に置かせてもらっている。ジイちゃんに余計な出費をさせてまで駆除依頼などできるものではない。話をうやむやに誤魔化して茶飲みを終えた。

いろいろな地域・いろいろな方たちと交流を拡大してゆくと、こういったことが出てくる。あくまで当方が部外者で、地元の方の生活パターンを乱すようなことがあってはならない。地元ファーストである。部外者が立ち入りることで起こる不要なトラブルは極力避ける、大事なことだ。

2017年9月18日月曜日

栗・ポポー 落ち始め

台風18号が通過して、ギラギラした夏のような太陽が照り付けている。
とはいえ彼岸も近い9月中旬。季節は確実に秋である。
※ ※ ※ ※
栗が例年通り落果しはじめ、まずまずの収穫ができている。
毎日の栗拾いは大変。だが、栗はおすそ分け先からは喜んでもらえるのでやりがいはある。

少し早いがポポーの実も落ち始めた。
樹には、小振りだがたくさんの実が付いているので今年も豊作だ。
ポポーの実は短期間のうちに一気に落果するし、足が速いので処理に困るシロモノだ。好き嫌いがはっきり分かれる果実で、引き取り手がなかなかない。
さて、今年はどうしたものか。



豊饒な里の秋の、贅沢な悩みである。

2017年9月12日火曜日

夕焼け空はお浄土である

今日の夕焼けはみごとだった。
NHKラジオの大相撲中継で結びの一番(日馬富士が琴奨菊に負けた一番)を聞きながら車で走っていた時分であるから、午後6時少し前だった。
西の空に絵画のような朱色に輝く雲が広がった。思わず車を停めて見入ってしまった。
2017/9/12の夕焼け (山方地区にて)
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
このような夕焼けを見ると思い出す短歌がある。
いつどこで見て知ったものかも、誰が詠んだものかも覚えていないのだが、琴線に触れたのだろう、妙に記憶している。
ただ語句も正確かどうか自信はない、そんな程度でしかないのだが。
  極楽におわす 父母 ふと想う 
     夕焼けの空  飽かず眺むる    (読み人知らず)

光景はきわめて絵画的であろう。まさに今日の西の空だ。
なんだか亡き父母を慕う気持ちがしみんみりと伝わってくる。
西の空を真っ赤な夕焼けが染め上げたとき、たいていこの句を思い出し、心の中で呟いている。今日一日無事に過ごせましたと感謝しつつ。

亡き父母たちは西方にあるという「極楽浄土」にいて、子や孫を見守ってくれている。そのお陰で日々平穏無事に過ごせている。そこに自然と感謝の念が湧くものだ。だが、目先の雑事に感けて、なにか誤魔化しつつ生活してしまっていることの多いわが身。盆と彼岸、命日の時ぐらいだろう、積極的に思い出すのは。それとて多分に後ろめたく、懺悔しつつではあるが。

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

感動するような夕焼けを見上げたときには、手を合わせずとも亡き父母の顔を、声を、思い出したらよい。父母はきっと喜ぶ。それ以上に、自分のココロが鎮まり穏やかになる。オカルト的だが亡き人の「魂」や「念」、「思い」は存在するのである。われわれが亡き人を偲ぶとき、必ず亡き人とはテレパシーでつながっている。現世を生きる我々側のセンサーが鈍感になっているだけだ。
目に見えないものは信じられないという思考は傲慢で寂しい。歳を重ねるにしたがってそう考えた方が合理的であると思うようになった。不思議なものだ。

そういえば、秋の彼岸がもうすぐだ。