2013年2月28日木曜日

SATOYAMA movement

かつてこのブログで、今時の若い女性たちが農業と関わる例として『山形ガールズ農場』や『晴れ ときどきファーム』について触れたことがある。
・2012/06/15ブログ
・2012/06/10ブログ 

片や本格農業に気合いを入れて取り組む若い女子だけの農場(=山形ガールズ農場)であり、他方は週末だけの農業もどきプチ体験(=晴れときどきファーム)であり、その関わり度合いには大きな差はあるが、共通しているのは都会にはない自然とのふれあいであったり食の安全・安心についての関心であったり、あるいは食料自給率に対する危機感ではないだろうか。
いずれにしても、そこで得られるのは消費するだけの都会の生活では決して味わえない充実感だろう。一時的なブームなのかも知れないが、現代人はみんながどこかで憧れに近い『農』への回帰願望を抱いている証拠だろう。
先の2つは両極端の例だが、このようにいろいろなアプローチの仕方があって良いと思う。

         

最近見つけたHPで『SATOYAMA movement  〜里山へ行こう』と題して『地域(里山)の景観と暮らしをお洒落に格好よく変えよう!』という運動を知った。
どちらかというと『晴れときどきファーム』に近い娘さんたち(晴れ・・より格段に若いお嬢さんたちだ)によるカワイイ系のアプローチであるが、まあそれはどうでも良い。
・HPはこちら ⇨  SATOYAMA movement 

『ハロー!  SATOYAMAライフ』というTV番組や、Official YouTube Channelまで用意されている。
どうやら主催しているのは芸能プロダクションも手掛ける企業グループ。道理で演出が上手いはずだ。
この分野にも関心を持ち積極的に関わる芸能プロダクション。。なかなかの慧眼と思うが、どうだろうか。

         

何度も言うように、自然や農と触れ合うに理屈は要らぬし人を誘うに多様なアプローチがあってよい。既定の概念だったり形にとらわれる必要はまったくない。里山を訪れる、そして自然に触れる、そういうきっかけはどんなものであっても大歓迎だ。
この番組も活動もますます盛んになりずっと続くことを期待している。
(実際、YouTubeの動画再生回数は120万回を軽く超えており凄い。余計な心配は要らぬようだ)

2013年2月25日月曜日

静織の里の古代遺跡 その後

昨年末に群馬県渋川市の遺跡から武具を装着した人骨が出土したというニュースがあった。まだ皆さんの記憶にも新しいだろう。
このようなビックニュースは滅多にあるものではないが、どのような遺跡であっても発掘というものにはある種のロマンが漂う。
出土する土器の破片からその全体像や製作した人物を想像し、住居跡の柱の穴や竈の焼土から当時の人の暮らしを想像する。
発掘は、掘ること自体も大事だが、その出土品を洗い、整理番号を付け、図面に記録し、土器などはジグソーパズルのようにつなぎ合わせて復元する。さらにそのあとには、専門の学術員が体系だてて情報を整理し発掘調査記録としてまとめ、報告する。この後工程部分も面倒で大変な作業なのだが、この分野が好きな人にとっては全く苦にならない。

         

以前ブログで、那珂市瓜連にある水郡線跨線橋の部分の発掘調査現場を見てきたことを記した。
2012/11/02 ブログ 静織(しどり)の里の古代遺跡
既に現場での調査は終わっており、調査報告書をまとめる作業をしている頃だろう。

先日、再び発掘現場を訪ねた。
まだこの部分では工事が始まっていないため遺跡としては残っているのだが、霜柱により土が崩れ、きれいに掘りあげられていた住居跡や柱の穴は見る影もなく平らになり、単なる凹んだ大地に戻っていた。
たしかここに住居跡があったはずだが
いまでは全く分からない
遺跡の発掘と言うのは、どんな目的があっても、どんな科学的な方法を使っても、やはり破壊でしかないという感じがする。
あと何十年、何百年か後に、もっと優れた技術で調査したら、発見できる事実もあるかもしれない。その可能性を『公共事業』なり『学術調査』という理由を付けて今の時代に絶ってしまうのだ。
そんなこともあって、このように調査が終わって崩れゆく遺跡を見ると悲しく複雑な気持ちになる。

         

常陸大宮市街地から南下し、玉川を渡って那珂市に入った部分のバイパス工事が本格化してきた。この遺跡部分につながる道だ。
市の境を流れる玉川
この橋を越えた那珂市部分で工事が進んでいる
幾つもの重機が激しく動き回っている。
気持ちよく通り抜けられる日もそう遠くないだろう。
この部分が出来上がるころには、台地上の遺跡も埋められて道路の下になるだろうし、人々の記憶からも消えて忘れ去られてゆくに違いない。

常陸大宮市や那珂市の久慈川に沿った台地上は、ほぼすべての場所に間違いなく何かしらの遺跡が眠っている。つまり太古の昔から連綿と人が住んできた場所ということだ。
それぐらいこの地は暮らしやすいところで、豊かな大地なのである。

玉川は常陸風土記にも記された由緒ある川だし、この市境あたりから北ではメノウが今でもごく普通に出土する。
バイパスのまっすぐな道路が完成しこのあたりを通過する際に、道路下にはそんな遺跡があることをちょっとだけでも思い出してほしい。
発掘現場に落ちいてた土師器の破片

2013年2月22日金曜日

偕楽園の梅祭りが始まっても

寒気が居座っている。
昨日に続き今日も寒い一日だった。日差しはあっても日中の気温が一向に上がらない。
東北の日本海側や北海道では異様な降雪量だという。

水戸では偕楽園の梅祭りが20日から始まったが、まだ3072本のうち78本しか開花していない(水戸観光協会発表の開花状況 2/19現在)というから、やはり今年はいつもよりもちょっとは寒いらしい。
梅は『百花の先魁』だ。
寒い中でも他の花に先駆けて咲く梅であるのに、まだ蕾が固い。
春まだ遠しだな、今年は。
我が園の梅の蕾はまだまだ堅い
         

最近は巣箱の仲でじっとして固まって全く動きを見せないでいる越冬中のミツバチであるが、今日の午後のあるとき、どんなスイッチが入ったのか知らぬが巣箱から次々と飛び出し、周囲を旋回した。
巣箱入り口付近を飛び回るハチ達
今日は巣箱を触っていない(底板を取り外しての掃除もしていないし、内部の写真撮影もしていない)ので、何も環境的には変わったことは無いはずだ。
あるいは異敵でも侵入してきたのか??

         

日中の日差しはタップリあったため、藁俵を巻いた状態の巣箱が適度に暖められ春と勘違いして飛び出す気になったのかも知れない。飛び出したものの、外気は寒いし、花もない。きっと慌てたに違いない。

たまたま観察していた数分がそのような状態だったようで、すぐに皆が巣箱に収まってしまった。まったく不可思議な行動だった。
3月に入れば梅から順次花が咲き始める。
それまでの辛抱だ。

2013年2月19日火曜日

雨水過ぎ

籾殻上霜降之図
キラキラと朝日に輝く霜。
まるで雪が降ったかのよう。
あたりの朝の空気は頬をさすように冷たく、凛と張り詰めている。

きりっと冷え込んだ寒い日の朝、日が高くなるまでの短時間しか見られない光景だ。
1月はほぼ毎日、2月は半ば過ぎても、まだときおりこんな光景が見られる茨城県北部。
天気予報では県庁所在地・水戸の予想最低気温が表示されるが、常陸大宮は水戸に比べて2~3℃低いことが多い。
それだけ内陸部、いや、人家・コンクリートの少ない田舎ということだろう。
(水戸は街中の気象台、常陸大宮は山の中に位置する上小瀬がアメダス観測地点だ)

この霜の姿が消えてなくなる時分まで、外での作業は待つことにしている。

二十四節季の雨水を過ぎた(2013年は昨日の2月18日)。
昨日も今日もずいぶんと暖かい。

このような霜で真白な朝の風景も次第に回数が減っている。
そしてなによりも、朝の日が差す時間が日ごとに早くなって来ているのを体で感じる毎日だ。

2013年2月15日金曜日

ミツバチ巣箱 追加設置

今年のミツバチの捕獲大作戦が始動した。
先日、既に製作してある重箱型巣箱4台を園内に設置した。
 
         

これまでの1年間のミツバチ観察の経験から、設置場所については慎重に場所を選んだ。
まず一番のポイントは、夏場の日中の直射日光を避けられる場所であることだ。
ミツバチたちは暑さに弱いので巣箱内が高温になることはできるだけ避けたい。

冬の寒さもミツバチにとっては厳しい試練の時だがミツバチ自身も活動量が少ないので、有る程度は人間の補助的な防寒対策(巣箱の周りに藁巻きつけるなど)でしのげる。
だが、夏の暑さだけは如何ともしがたい。
巣箱の開口部を広げて風通しを良くする等ができればよいがそうもゆかぬ。
ほぼ密閉された巣箱の内部は想像を絶する湿度と暑さであろう。
巣箱の前にヨシズを立てても良いのだろうが、倒れる心配もある(ミツバチは振動や衝撃音に敏感で弱い)し、わざわざそのためだけにコストをかけるのも惜しい。

条件的には、夏には日中および西日が直接当たらず風通しが良い場所 & 冬には日当たりが良い場所で北風が直接当たらない場所。。
すべてを満たす理想的な場所は無いのだが、今回追加の4台は落葉樹木の下を中心に設置した。
(冬場の寒さ対策は、北側に薪で防風垣を作るのと藁を巻きつけることで対処しようと思う)
柿の木の下に設置したC。
西側には梅の木があるので夏の日差し対策はバッチリだ
一番左側の藁が巻いてあるのが、ミツバチが入っているB館
中央が、未入居のA館。右側が今回設置のD。
いずれもスモモや梅の木の下で夏場の直射日光を避けられる位置だ。
※巣箱に識別番号をつけているのだが、お気付きの通り、いい加減なことに統一性が無い。
一昨年設置した2台はA館・B館としているが、今年の設置4台はC~Fとした。
そのようにした積極的な理由は無い。しいて言えば、館と言う字をプレートに記すのが面倒だったからだ。
EとFは、やや離れた場所にある蔵の軒下に設置した。
いずれも梅・柿の木が南側、西側にあり直射日光を避けられる。
 この状態で直射日光と風雨にさらしてより自然な状態に近づけておきたい。
あとは分蜂時期近くなったら、分蜂集合板を近くの樹にくくりつける予定だ。

さて、これからミツバチたちとの心理戦が始まる。
知恵の出しどころである。
この作業もミツバチを飼う愉しみのひとつだ。ワクワクして力が入る。
なにしろ、役所に提出した今年の飼育計画は、2であるから。

2013年2月13日水曜日

ガンマフィールド 放射線照射業務再開の報

常陸大宮市に『ガンマフィールド』という施設がある。
近隣在住者であればたいていの人は存在だけは知っていると思う。
旧大宮町の大宮音頭にも『♪ ガンマフィールド 東洋一 ~ ♪』と歌詞がある。

農林水産省が所管する独立行政法人農業生物資源研究所の研究施設だ。
正式には『独立行政法人農業生物資源研究所 放射線育種場』と言う。
山の中に半径100mの巨大なすり鉢型の圃場があり、円の中心部にガンマ線を放射する設備がある。
東京ドームは約216メートル四方だそうだから、ほぼおなじ大きさだ。
(★放射線育種場の様子はこちら → 写真集) 
GoogleMapでもこの巨大な圃場ははっきりと確認できる。
   ★放射線育種場のある場所はここ →  ガンマフィールド

ガンマ線を作物に照射することで突然変異を促し、より良い性質の農作物を作り出す作業を続けている、という。
1960年(昭和35年)に建設され、翌年から放射線を照射開始しているというから、歴史は古い。
このような施設は日本国内では他になく、常陸大宮市だけにしかないのだが、地元住民としては『上村田の山の中にあるやつだ。詳しくは知らぬがなにやら放射線を作物に当てているところらしい』という程度の知識しかもっていない(少なくとも小生の認識では)。
この施設は一般に公開する日があり(前回は2010/10/16)見学できるのだが、残念ながら今まで一度も見学には行ったことはない。

         

ガンマフィールドが建設されたのと同じ1960年には、東海村に日本で初めての原子力発電所が建設されている。
(臨界に達して商業原子炉となったのは1965年だ)
この時代は、世紀を開く新しい科学の火として原子力がクローズアップされ、その新技術に誰しもが明るい未来と夢を抱いていたに違いない。
だが、一昨年の福島第一原発事で原子力の信頼は地に落ち、人々の認識が激変したことは周知のとおりだ。
おそらく現在であればこのガンマフィールドのような放射線を照射する施設の建設は、理性的な安全性の議論とは関係なく地元や反対団体の反対運動が起こり到底不可能なことであろう。

ガンマフィールドでは、東日本大震災の発生によりそれ以降の放射線照射を停止していたようだ。このことを研究所のHPで知った。
また同時に、(震災で照射を停止して以来)この間、設備の点検確認を行ってきて問題ないことが確認され、監督官庁の承認もおりたので照射業務を再開した、との公式アナウンスがなされている。
   放射線育種場からのお知らせ(平成25.1.25)
なんともヒッソリとしたお知らせだ。

         

福島第一原発事故以来、『放射線』やら『放射性物質』という言葉とともにその影響について一般の人の関心はいやでも高まった。
だが、そのはるか以前の50年も前からこのガンマフィールドでは、立ち入り禁止の特別な場所ではあるが強烈な放射線(ガンマ線)を、広く自然界に向けて照射してきたのである。研究施設内のような閉じた空間ではなく、である。

福島原発事故が起こり『放射能アレルギー』が広く蔓延したにもかかわらず、ガンマフィールドが扱う『放射線』については騒ぎになった・問題視されたということはないように記憶している。
ごく身近に『放射線』を扱うこんな施設があることに、ひどく鈍感になっているとも思える。またある意味ではそれぐらいの認識しかされていない存在とも言える。

十分な知識も持ち合わせぬ身であるので無責任な発言は控えるが、果たしてこの施設周辺での放射線量の測定はどのようになっているのだろうか、という個人的、素朴な疑問はずっと抱いている。
付近では他地域と比較して何かしら特異な疾病の発症比率が高い等の事象は確認されていないのだろうか。付近住民の健康に対する長期の追跡調査があるのかどうかも知らないのであるが。
すぐ近くには人家がない山の中といっても村田小学校は東に2キロ弱である。
農業生物資源研究所HPでも放射線育種場のHPでも、周辺環境に対する放射線の影響やその安全性については一切言及されていない。

ひょっとしてこの施設では放射線の影響を心配しなくてよい構造なのかもしれない。
(・・・原発も同じような考え方だったのだろうが、ちゃんと幾つものモニタリングポストを設置していた)
福島原発事故では放射性物質を含んだ灰が飛散したために放射能汚染が広がったが、ここは放射線を照射しているだけで放射性物質は飛んでいない。放射線が外に漏れない限り安全なのだろうとは思える。
だが、少なくとも植物を突然変異させる=遺伝子を変形させるのであるから、当然に同じ生物としての人間にも多少の影響はあるだろうと思うのが自然だな、やはり。
あるいはどうやっても外に漏れない構造(そのためのすり鉢型か)になっていて上空には漏れても周辺には漏れないとしているのかも知れない。
どんなに万全を期していたとしても、どこで何が起こっているのか分からない。何しろ目に見えないものだから始末が悪い。
仮に周辺に放射線が漏れ飛散していたとして、その量が微弱であっても何十年もの間、近くで生活して晒されていれるとすれば、何かしらが・・・。
浅学による理解不足で、全くの思い違いならば良いのだが。
残念だが、原発事後ににわか仕込みした放射線や放射能の薄っぺらい知識では、これ以上どうににも思考が深まらない。

         

研究内容を見る限り有用な試験を行っている施設だし、われわれはその恩恵に浴しているのは間違いない。その意義は十分に理解するものである。
だからこそ、福島第一原発事故の後だけに、より丁寧な広報活動が必要なのではあるまいか。
研究所自らのリスク管理の一環として周辺の複数ポイントで放射線量を計測しているとは思う(・・・原発事故後でも、もしやっていないとしたら驚きだが)。
そういった資料を、放射能全般に懐疑的な人たちに求められて渋々公表するのではなく、自ら進んで先手を打つ形で発表すればよいことだ。
経済産業省のHPには、さまざまな公的機関・研究所・地方自治体がモニタリングしている数値をまとめてリンクしてポータルサイトとして公表している。
・  経産省HPの各機関のモニタリングデータ
農業生物資源研究所・放射線育種場も、ここに(計測したデータが有るのであれば)出せばよいのにと思うのだが。

知りたい人にだけに求めに応じて出す=>求めが無いと出さない=>隠しているのではなく求めないほうが悪い、という企業態度にどうしても映る。
これではCSR(corporate social responsibility=企業の社会的責任)の観点からもいただけない。
このあたりの感覚が、民間企業の敏感さに比べやや鈍いし努力が足りないように思う。

今も続く東電の数々の失態は良い教訓ではないのか。
あのように企業は危機管理を誤り、対応が後手に回ると何をやっても不信の目でみられるようになる。
都合の悪いことを隠ぺいしているのではないかとあらぬ疑念を持たれて信じてもらえない。
最悪、事業そのものがが立ち行かなくなる。将に組織の危機だ。

残念ながら地元民は、ガンマフィールドについても、東海村の原発についてもやや関心が低いのが現状だ。彼らもそれに甘えていてはダメだろう。

         

ネットで調べていたらちょっと気になる記事を見つけた。
ガンマフィールドで低量被爆の研究をした大学教授の話だ。
内容は『低線量被爆の害について 根岸レポート9』に詳しい。
どうやらこの調査から言えるのは発がんリスク増大ではなく、突然変異の確率が高くなるというものだが、やはり気にはなる。
本来自然界では発生しない不自然なものを強制的に作っているという漠とした不安・恐怖だ。
それにガンマフィールドから外部への放射線漏れの有無を測定しているのかどうかさえも、知らされていないのだから余計にだ。
クドいようだが前述のように(どこかに公表されているのかも知れないが)一般の人が容易に知りうるような公表形式になっていない。

         

小生の手元には、福島第一原発事の直後に購入したガイガーカウンター『ポケットガンマ(Gamma)くん』がある。
この放射線測定器を入手してしばらくの間は、市内のいろいろな場所の線量を計測して回った。
手元の記録を見たらガンマフィールドの正門前でも放射線量を計測している。
この時、特別高い数値が示されなかったので安心した記憶がある。
今回知ったことだがこの時点(2011/08/19)ではガンマ線照射は停止していたようなので、当然と言えば当然である。
照射再開の報を聞いた今、再び放射線量を自主計測してみようかと思う。
測定・撮影は2011/08/19
他地域と同じ程度の0.14μSV/hだった。
余談だがこの撮影の瞬間、大きな余震があった。
(8/19 14:36発生  震源地は福島沖。福島・宮城では震度5弱を観測。当地も震度3だった)

2013年2月11日月曜日

ロウバイ咲き始める

冬の寒空の下、小さく黄色い花を咲かせている木を見かけることがあるはずだ。
外で咲いている花が無いに等しい2月の時期に、木に花を咲かせる数少ない植物。
ロウバイである。
漢字で書くと『蠟梅』。花の匂いは強い。

我が園のロウバイも、今月に入ってからつぼみが膨らみはじめた。
寒さには強い花だ。霜が下りようが雪が降ろうがちゃんと花を咲かせる。
葉も何もない枝に、直接花が咲き出る。

控えめな黄色の花だが、周りの風景がさみしい時期だけにそこが少しだけ華やいで見える。
残念ながら我が園内はバラバラに数本の木があるだけだが、ロウバイの名所と言われるところではたくさんのロウバイの木に花が一斉に咲くのであろうから、さぞや見事であろうと思う。

ロウバイは実生(種)で簡単に増やせる植物だ。
園内いずれかの場所にまとめて植栽し、ロウバイ苑でも(ゆくゆくは)作ろうかと思う。





2013年2月6日水曜日

春よこい フキノトウ芽吹く

立春を過ぎたが、また雪が降った。
今年の冬は降雪回数が多い。
朝起きたら白銀の世界
今朝の水郡線は通常通り運行
雪の玉川村駅
一方では先日の土曜日(2/2)には2月とは思えない程に気温が上がった。
人間も含めて、動植物は戸惑う。
でもやはり2月は2月。まだまだ雪は降るだろうし寒い日は続く。
四つの季節にはメリと張りがあったほうが良い。

         

我が園内には栗の樹が立ち並ぶ一画があるのだが、この樹下一帯にはフキが群生している。
そこはいまはまだ緑らしい緑はなく、枯れた草や落ち葉が地表を覆っている。
そんな中、先日、土の中からフキノトウが小さな顔を出しているのを見つけた。
まだ2㎝ほどで蕾は固い。
数も少なく摘むには早い。
摘み取るにはまだちょっと早いようだ。
あと少し大きくなるまで成長を待ち、もっと沢山のフキノトウが顔を出すようになったらさっそく摘み取ろう。
そして、まずは天ぷらか。早々と早春の味を堪能できる。
独特の香りと苦みがいい。これぞまさしく大人の味だ。
なんともささやかだが、贅沢な里山ライフ、ではないかな。

今日の雪はすぐに融けるだろう。
春よこい。早く。。
農機具等を格納している倉庫でも、魔除け鰯が睨みをきかせている

2013年2月5日火曜日

ミツバチ分蜂群誘導板製作用 杉の皮 お分けします


【ミツバチ分蜂群誘導板用 杉の皮 お分け(販売)します】

ミツバチの捕獲について、それぞれの方がいろいろ工夫されている。
そのうちのひとつに分蜂群誘導板があるが、その板には材料として桜の樹皮を貼るのが良いとか杉の樹皮を貼るのがよいとか、既に実践されている方の情報がある。
何しろ相手が相手で、その心情が掴みきれないために試行錯誤を余儀なくされているのが現状だろう。
そのさまざまな経験の中から帰納的に導きだされてきたものがきっと桜と杉の皮なのだろうと思う。

今回作成した分蜂群誘導板には、我が家の山で切り出した杉の木から剥がした皮を使った。
(まだ結果が出ていないの段階なので、その効果についてはコメントできないが)

まさにこれからの時期がこのようなミツバチ捕獲準備のタイミングで、分蜂群誘導板制作を考えている愛好家も多いだろう。
ただ、このような杉の皮は個人ではなかなか手に入らないのではないかと思う。
ネットで調べると杉皮を販売している業者はあるようだが、建築資材としての扱いでかなりの大束となっており、個人で使うには量が多すぎるはずだ。

下の写真は先だって分蜂群誘導板を作成した際に杉の皮を剥いだ時の写真である。
このように表皮が木の部分からキレイに剥がれるようになるには、切った原木を一年程度野外に置き自然乾燥させることが必要のようである。
一年間程度、適度に雨に濡れたり乾燥したりの繰り返しを経てやっと表面の皮が木から離れて浮き上がってくる。そしてはじめて、このように一枚の板状にキレイに剥がれるようになる(専門業者がどのような方法で大量の皮を剥いでいるかは、不勉強にして知らない)。

さらに皮を剥いだあとも、乾き過ぎてしまうと固くなり、丸まってしまうので裁断が難しい。さらには縦に(繊維に沿って)すぐに割れ易いため、まとまった面積の方形の皮を作るのは結構難しい。というのがやってみての個人的な感想である。
専門業者は蒸したりプレスしたりしてキレイな商品としての皮を作っているのであろう。
一昨年冬に切り倒した杉の木から剥がす表皮
幸い手元にちょうど皮採取に適当な状態の杉の原木がいくつかあるので、ご希望の方にミツバチ分蜂群誘導板用に杉の皮を小口でお分け(販売)します。
専門業者が商品として作るもののようにキレイなものではありませんが、板に打ち付ける等して使用する分には問題ないと思います。
在庫に限りあるため、無くなり次第販売は終了しますので御了承願います。
  
■ひたち里山産 天然杉皮(販売用)


【成形分】~ 上の写真の状態
   大きさ 縦 約20㎝ × 横 約20cm 
   数量  5枚一組 (2,000㎠分程度)
   価格  1,000円/組 (消費税無し 送料別)
   ※ 天然ものであるためサイズ・厚さに多少のバラツキあり
 【非成形分】
   大きさ 大小バラバラ(詳細はご相談ください)
   数量  1㎡ 相当
   価格  1,000円/㎡ (消費税無し 送料別)

■ご注文・お問い合わせ
  hitachi-satoyama-farm@live.jp  まで(@は半角です)
■本広告の有効期限
  2013/04/30  
  ※それ以降でも、在庫あれば個別に相談に応じます。

2013年2月4日月曜日

改正養蜂振興法 施行

改正養蜂振興法なるモノが今年の1月から施行された。

 ⇨ ミツバチを飼育する方へ 茨城県からのお知らせ

今回の改正により、ミツバチを飼う場合には県知事宛に(・・手続き的には農林事務所にだが)飼育届けを出さないといけなくなった。たとえそれが趣味の範囲であってもだ

我がファームで昨年から始めた、全く趣味の域を出ないミツバチ飼育とハチミツの採取である。
だがしかし法は法であり守らねばならぬ。何か言われてから・起こってからでは遅い。
ダンマリを決め込むのも出来るのだろうが、このブログで盛んに取り上げてしまっており公知の事実となってしまっているので、届けを出さぬ訳にはいかぬ。
法令遵守・コンプライアンスは大切なこと。
簡単な手続きのようなので、遺漏なくやっておきたいと思う。

県ではこの届けは毎年1月末日までに出すことを求めているようだ。
2月になってしまい遅くなったが、これ以上、いたずらに提出を遅らせる意味もない。
ダラダラと出さないで気にしているよりは当然ながら精神的にも良い。
ということで、さっそく届けを出しに出かけた。
みつばち飼育届け
常陸大宮市を管轄する県北農林事務所は隣の常陸太田市にある。
受付してくれた担当者にいろいろ話を伺った。
県北部の管轄エリアで届けが出ているのは約30人程。1000を超える群を擁している方は2人(種類はセイヨウミツバチ。業としている人だ)、他は1〜5群程だそうだ。この規模だからほとんどが趣味だろう。
同好の士はもっと多いのかと思ったが意外に少ないので驚いた。
(ただ、届けを出していない人も多いだろう。担当者も『どのようにしてこの届けが必要と知ったのか?』と質問してきたほどだ。やはり徹底は難しいか。)

         

我がファームでは、現状巣箱一箱にしかミツバチが入っていない。
⇨ 一昨年の春、東日本大震災の3日前に巣箱を2箱設置した。そのうちの一箱に昨年5月にミツバチが入った。このミツバチの入居に際してはミツバチ分蜂群誘導板は使用していない。

(密かな野望としてだが)これからミツバチを大幅に増やす計画でいる。
巣箱は増設する4箱が既に完成しているので、今後6箱態勢でミツバチを捕獲・飼育する予定だ。
これらのうち追加で1箱でも2箱でも新たにミツバチが入ってくれれば大成功である。
飼育届けには、飼育計画として群数2と(控えめに)記入しておいた。

ミツバチが巣を分ける分蜂が春から始まる。この新居を求めるミツバチを捕まえるための分蜂集合板も4枚作った。
杉皮を貼付け蜜蝋をしっかりと塗り込んだものだ。
キンリョウヘンというミツバチが好む蘭も、株分けして温室内で養生中だ。

このように、準備は万端である。
あとは今月末あたりにこれらを設置し、ミツバチ捕獲あるのみだ。
既に営巣している一箱のミツバチ達には、更なる活動でハチミツをたんと蓄えてもらう。
頼むぞ、ミツバチ達。。

2013年2月1日金曜日

動詞『死ぬ』はガ行五段活用している

茨城人の言葉は独特のアクセントがあってちょっと耳にしただけでああ茨城の人だと分かる。東京暮らしとなって久しい人でも、僅かに語尾アクセントに茨城訛りは残るようだ。栃木県のアクセントとも、千葉のアクセントとも、福島のアクセントとも微妙に異なる。茨城弁ネイティブスピーカーだけが聞き取れる微妙な違いがあるのである。

おそらく関西在住の人にとっては茨城と栃木と群馬は県の位置関係を含め同じようなものだとと感じているのだろうと思うし、同時に話す言葉も同じに聞こえるに違いない。われわれも、説明してもらい聴き比べれば分かるのかもしれないが、大阪弁と京都弁、神戸弁、河内弁・・はすべて関西弁であり同じに聞こえてしまう。
これだけ情報化が進んだ時代であり、人の移動も大量にしかも自由にあり、TVを見れば標準語と呼ばれるものが垂れ流されている時代なのにである。
それでもこのように均一化せず地方独特のアクセントや言葉が引き継がれるのはある意味で素晴らしいことだ。

         

江戸末期、尊王攘夷だとか討幕だと言って全国各地から志士たちが江戸や京都に集まった時代があった。そこには薩摩弁、長州弁、土佐弁、会津弁、江戸弁、京都弁、そして何よりも水戸浪士たちの茨城弁が入り乱れていたはずだが、標準語なるものが確立していないあの時代にどうやって互いが微妙な意志疎通を図ったのか=出来たのかが不思議でならない。
お互いが『こいつ、訛っていやがる。何言っているかわかりゃしない。この田舎モノ!!!』などと心のうちでは思っていたかもしれぬ。
今年のNHK大河ドラマ『八重の桜』はまさに幕末の会津や京都・江戸が舞台。テレビのようなスマートな会話では決してなかっただろうに、などと思いながら見ている。
江戸城無血開城を話し合ったという西郷隆盛(薩摩弁)と勝海舟(江戸弁)の会談は有名だが、そのやり取りはどんなだっただろうか? 興味があるところだ。
いまでもTV等で聞く年寄り世代の話す津軽弁、秋田弁、会津弁などは聞き取りにくい(あくまで茨城育ちで他を知らぬ小生の個人的な感想だが)。テロップが表示されてしまうほどだ。
だが、これはまだまだ地方の特色を失っていない証拠でもある。標準語が偉いわけでもなんでもない。たまたま首都が江戸になっただけで、そこの言葉=江戸弁が標準語扱いされただけであって、もとはローカルな言葉の一つにすぎない。

         

茨城県内でも他地域はどうか知らぬが、たとえば『死ぬ(しぬ)』と『来る(くる)』などは標準語と異なる活用をしている。(以下はあくまで小生の個人的な分析である)

この地域でも、現代の若者は使わないかもしれないし、同世代でもこうは言わないとの異論もあろうかと思うが、小生が子供のころから馴染んだ言葉の個人的感覚としてはこのようなものだ。
(ここまで書いてふと思ったのだが、来ろ=きろ とはあまり言わないような気もする)

         

そしてもうひとつ。
標準語に『どんな点から考えてもその可能性がありそうには思えない様子』を意味する『まさか』という言葉があるが、われわれ世代以上の年代の当地人は、全く別な意味でこの言葉を使うことがある。(当然ながら標準語の『まさか』もまさにその意味で使っている)
とても微妙なニュアンスで、標準語でピッタリした言い換えができない。
他地域の人と話していて不用意にこの意味合いで『まさか』を使ったりすると間違いなく怪訝な顔をされる。そんな経験をした方も多いはずだ。
実に奥深い単語なのである。
この話は、別の機会にしたい。