2014年2月25日火曜日

西金駅開設秘話 ~ 幻の平山駅 新畑駅 仲藤駅

西金工臨の西金駅の話である。

         

石井良一氏の著になる『水郡線の歴史』(1960年 水郡タイムズ社)という本がある。古い本なのでなかなか手元にはないだろうと思う。茨城県立図書館に所蔵されており閲覧が可能である。
この本は水郡線の開通までのいきさつが詳しい。
(ただ、わが玉川村駅についての記述は全くないのが残念だ。石井氏は大子の在の方であるので大子関連の部分はやや詳細に述べられている。仕方ない)

明治40年(1911年)に根本正代議士たちが鉄道建設に関する建議を帝国議会へ提出するまでのいきさつから、帝国議会での論戦内容、決定されてからの地元の動きなど、資料を元にして実に細かくまとめられている貴重な本だ。

この本の中に、西金駅開設時の地元のドタバタについて記されている部分がある。やや長くなるが引用してみる。
※文中に出てくる『大郡線』とは、今の水郡線の前の呼称である。既に明治34年には水戸~太田まで開通していた私鉄・水戸鉄道があるが、のちにこの経営権を持った安田財閥が昭和2年に国鉄に売却。その際に、本線とあわせて水郡線と改名した。(正確には、部分開通しているため呼び名はややこしく変遷している)

ちなみにこの騒動話は、Wikipedia『西金駅』にも紹介されている話だ。

         

(P.78) 山方宿--上小川開通
 この大宮--山方宿間に大郡線最初の鉄道が開通すると、鉄道省では山方宿--上小川間の第二期工事にとりかかった。この区間の実地測量は大正10年の夏のころ、鉄道省の横島技師を主任として行われ、ちょうどこの工事に着手する1年半ばかり前のことであった。横島技師は西金の島田屋旅館に宿泊して、山方宿から久慈川伝いに測量を始め、西金宿から上小川入口の新畑と仲沢とに二つの駅を設けて袋田、大子方面に及ぼそうというのが最初の計画であった。
 ところがこの予定の計画はどこからどうして洩れたものか、早くも盛金の人たちの耳に入った。『盛金を素通りされては、汽車に乗るのに誠に不便である。一つこの際は地元民の熱意を示して、盛金の平山に駅を作ってもらうよう運動を起こそう』とよりより相談はとり交され、代表者が島田屋旅館に横島技師を訪ねて平山駅開設の運動を行った。再三の陳情に横島技師としてもついにその熱意に動かされ、ここに予定の駅は変更されて新たに下小川の平山と上小川の仲藤とに二つの駅を作るよう測量を始めた。
 この測量の変更が西金の人たちに知られたのは秋10月のことで、全くの寝耳に水の出来事だった。そこで西金の人たちは『新畑駅を廃されたのでは、われわれ西金区民にとって不便である。二つの駅の間に西金駅を増設してもらう運動を起こそう』と村長小室隆氏をはじめ神長道之介、小野瀬英、小室順太郎、高村千代吉、神長道太郎の各氏、それに上小川の川井二郎氏らも仲間に加わって、政党政派を超越し幾度となく上京して鉄道省に西金駅設置の陳情を行ったが、すでに鉄道省では横島技師の測量に従って平山と仲藤とに二つの駅を作ることに内定し、この短い区間にもう一つの駅を作ることはとうていできない相談だと軽く一蹴したので、陳情団の一行は仕方なく致し方なくその場を引き上げる始末であった。
 しかし西金の地元民はこれにひるまず、あくまで初志を貫徹する決心で郷里へ戻ると、引き続き横島技師を訪ねて根強く陳情を続けたので、ついに横島技師は手を焼いてしまい、『それならいっそのこと西金通過は見合わせる』と新しく盛金の国神神社の脇から大野内を通り、久慈川沿いに三峰の山腹の絶壁を通ることに路線を変更して、測量のやり直しまで始めた。そうなっては西金駅の設置はもう永久に断念のほかはない。この陳情がかえって思わぬ逆効果を生んだことを知った西金区民は、すっかり驚いてしまい、再び横島技師を訪ねて『路線の変更だけはなんとしても取りやめにして欲しい』と嘆願したので、西金通過だけはそのままになった。
 するとそれから間もなく地元の代表者は太田建設所長を訪ねて『もし西金に駅を作ってくれないなら、用地の買収には応ぜられない』と用地買収反対の強硬な態度に出たので、太田所長はカンカンに怒って『それならもう測量はこれで打ち切りだ』と測量を中止させてさっさと引き上げてしまった。
 この経緯を聞いて大子町の鉄道派は驚いた。この西金一カ所の問題で、長い苦心を重ねてここまでこぎ着けてきた大郡線の測量を中止されては大変だと、益子町長、石井栄次郎、外池太一郎氏らが西金に足を運んで地元の代表者と膝を交えて交渉したが、西金の人たちもそこは真剣で、たとえ西金一カ所なりとも死活の問題だとして頑張り、交渉はなかなからちがあかない。その間に太田所長はいったん引き上げはしたが、冷静に考えると自分の一存で測量を中止する訳にもゆかないので、再び戻って測量を継続するという一幕まで演じた。すると大正12年9月、折からの関東大震災に見舞われて、この測量は一時中止のやむなきに至った。
 時の内閣は原内閣で鉄道大臣は大木遠吉氏だったが、大正13年、政変によって憲政会の若槻内閣が生まれた。地元では憲政会の小野瀬英、小室順太郎氏らが好機到来とばかりに憲政会の大津代議士を動かし、この運動には政友派の神長道之介氏らも同調して、大津代議士を通して時の鉄道大臣仙石貢氏にわたりをつけたが、その結果はなかなか思わしいものではなかった。
 とかくするうちに山方宿--上小川間の工事は着々と進められ、この工事の完成を見たのは大正14年の8月、そしてその月の15日に下小川、上小川両駅の鉄道開通式が上小川駅前で盛大に行われた。

 (p.81)西金駅の開通
 かくして山方宿--上小川間の大郡線は開通したが、この開通をみる二ヶ月半ほど前に、大津代議士から西金の有志あてに、西金駅設置の運動資金として一万円ほどの金が都合できまいかと電報で問い合わせが来た。当時の金で一万円といえばなかなかの大金だが、この金さえ工面すれば西金駅の増設ができるものなら、これは万難を排してでも都合をすべきだと西金の有志たちは鳩首協議して、ただちに大津代議士に『カネ ツゴウデキル』と返電した。するとしばらくの間は何の音沙汰もながったが、その翌月になると大津代議士から『西金駅の増設には確実な見通しがついた』と電報で知らせてきた。
 こうした吉報は、もちろん大津代議士の運動の結果にもよることだが、もともとこの運動に対しては地元民が熱意を示し、鉄道省としても古来この西金駅が水戸街道の一要衝をなし、大子に次ぐ第二の宿場として栄え、農産物、ことにこんにゃくの産地としても以前から知られた宿場であるので、ここに駅を増設すれば地方の振興にも役立ち鉄道省としても経営面から損をするようなことはあるまい、とも考えて増設を認めることに方針替えをしたものと思われる。
 ところがさて西金駅増設という段になると、西金駅設置の場所をどこにするかについて問題になった。なにしろ当時西金宿の通りは道が狭いのである。ここに駅を作るなら、新しく県道をつくり替える必要がある。それには地続きの土地を買収する必要が生じてきたので、地元民は土地の所有者と交渉して県道の東側の畑24歩と田7畝15歩を買収して新道をつくり、従来の県道は駅の敷地に当てて西金駅を作ることになった。工事は8月7日、小野瀬英氏を工事委員長に、小室順太郎、神長道太郎の漁師を相談役とし、22名の役員を決めて、区民が毎日出勤、突貫作業で工事にとりかかった。その間には上小川駅が開通し、この作業を続けている間に、汽車が黒い煙りを吐きながら眼の前を通り過ぎると言うありさま。それでもこの工事はそのの10月2日に完成して、翌大正15年3月21日に西金駅が開通し、西金区民の長い運動はここに実を結んで、この駅の開通の日には駅前で盛大な開通の式典が催された。
いま駅の傍らに大きな桜の樹がある。これはその当時県道の傍らに植えてあったものだが、この工事が行われた際に、時の建設局長池田嘉六氏が『記念すべき桜だ。伐らずに保存しておくのがよい』という勧告もあって、そのままのこしておいたものがこの桜の樹で、今日地元民はこの桜の樹を池田桜と呼んで往時を懐かしんでいるという。また開通式の当日には、この池田桜の下で俳句の大会まで開かれたという名残の深い桜である。この西金駅を汽車で通る場合、この桜の樹を眺めて西金駅増設の裏面史を偲んでみるのも感興の深いものがあろう。

         

いかがであろうか。
当時どこの駅でもある程度誘致合戦はあっただろうがとりわけ、西金駅は当時の地元民の強い運動があって開設で実現した駅、なのである。一度や二度拒否されてもへこたれない何ともすざましい粘りではないか。先人達は実に偉かったと思う。その運動が強すぎて逆に駅ができない可能性もあったのではあるが。
いまはヒッソリとした西金駅周辺だが、大正時代末期には駅開設に向けて人々が心を一つにし、それはそれは熱いエネルギーを見事に昇華させた地なのである。
そんなHot-Spot・西金=WestGoldである。

         

文章中に出てくる盛金or下小川の『平山』、上小川入口の『新畑』・『仲沢』、上小川の『仲藤』という地名がどの辺りなのか残念ながら分からない。字名なのだろう(地元に詳しくないと分からない)。
二転三転した駅設置の場所である。もしかしたらこの地名の場所に駅ができていたのである。
水郡線・幻の駅・・ちょっとだけロマンがある。

※ 次回は、水郡線は『勝田--(常陸)大宮』のルートを通っていたかもしれなかった話を紹介したい。

2014年2月22日土曜日

チェーンソーの目立て

冬の寒い時期は『山仕事』に限る。

第1には、他に急いですべきような農作業らしきものがまだ無い時期だということ。
第2に、雑木を伐採してゆくと、次第に里山がかつての手入れされた美しい姿へと変貌して行く。それを眺めつつ自らのペースで仕事を進めるのがなんといっても楽しいということ。
切り株に腰を下ろし休憩していると、オレンジ色が美しいジョウビタキが近寄ってきたりする。野鳥を眺めつつ熱いコーヒーを啜るのは至福の時である。
ジョウビタキ
第3に、木を切り倒す際には力が要る。加えて山の斜面の上り下り、切り倒した木の山裾への引き下し作業などはいずれもがなかなかハードである。
息が上がることもしばしば。体は暖まり健康な汗を存分にかく。
全身を使う有酸素運動の見本のようなものであって、とにかく健康体になるのである。
楽しくて健康になる。これだからやめられない。

第4に、シイタケの原木が確保できる。闇雲に木を切っている訳ではない。
(ただ、今年は原木の切り出しを止めた。ここ3年間は毎年50〜60本ずつ増やしてきたこともあって、収穫がそれなりにできるようになったためだ。)

          

山作業に必須なのが『チェーンソー』。
チェーンソー
手挽きのノコギリも出番は多いが、やはりエンジンの力で木を切るチェーンソーは必要なアイテム。

優れもののマシンであるが、使っているうちにチェーンの刃が摩耗するため切れ味がガクンと悪くなる。こうなるとエンジンに余計な負荷がかかってしまうので要注意。
ために、チェーンの刃をヤスリで研いで切れ味を戻す作業が不可欠となる。
これを目立てという。
          

チェーンは高価である。研ぎながら大切に使っている。
だがこの目立てがなかなか難しい。
今もって下手くそで、何度やっても満足いく研ぎ方ができたためしがない。
ヘタはヘタなりに時間を要したが、ある程度のコツを習得した。
この習得過程もまた楽しい。
(我が家で使っているバーサイズ35cmタイプのものは、替えのチェーンは3,000円ほどする。そうそう簡単に買い替えできない)
          

ネットで探すと、研ぎ方について詳細に解説してくれているテキストらしいものもある。
  チェーンソーの正しい目立て
・・・これはかなり詳しい。

やはり実践が一番だとは思うが、経験からいうとこのようなテキストはけっして無駄ではない。
頭で仕組みや理屈をある程度理解しておくと、無駄な作業をしなくて済む。
チェーンの仕組みを分かっていると違うと思う。
目立てに使う棒ヤスリ
          

前掲『チェーンソーの正しい目立て』に紹介されていた言葉が実に良い。

ソーチェーンはノコギリである。 ノコギリは刃物である。刃物は切れなければならない。
刃物は泣くほど研げ、笑うほど切れるぞ。

全くもってその通り。いずれも真理である。
山頂の鉄塔周辺まで作業が進み、見違えるようにスッキリとした。
だが、まだまだ作業は続く。

2014年2月17日月曜日

なんとページビューが80,000を超えた

東日本大震災から間もなく3年になろうとしている。
月日の経つのは実に早いものだ。
このあたりの地震被害の主なものは、屋根瓦が落ちたり、大谷石の塀の崩れや倒れ、墓石の倒壊、一部地域で液状化による路面の隆起・沈下であったが、そのほとんどが修復され、もはや震災の傷跡はほとんど見受けられない。
岩手や宮城、福島では今なお復興が進まず、大変な生活を続けておられる方々も数多いと聞く。
我々はこの程度の被害で済み、今このような生活ができていることに感謝しなければならぬ。と同時に、原発事故で戻るに戻れぬ人たちがいることに心を痛める。
あの時に騒がれたいろんなことも、風化してしまっている気がしないでもない。
原発の再稼働云々も然り。さてさて、現代の日本人、どこを向いて進んで行くのだろうか。
小生などは便利さや効率性、快適性、収益性などは多くを望まず、静かにエコな生活をここで過ごしている。
そんななかで自らが細やかだが幸せであると感じること・瞬間を積み重ねること。
それが一番『幸い』であることを実感しているから。

これまでの人生、資本主義の権化のような場所で先兵としてひたすら頑張ってきた。それが誇らしくも感じていた。
先には右肩上がりの将来と幸せがあると信じ、頑張って、ひたすら走って、走って、走ってきた。
むしろその期間の方が長い。
ある面ではそれは正しくもあったのだが、実はそれだけが真理ではないということも知った。つまり、実は足元に(も)幸せはあったということだ。

人の生き方には様々なパターンがあってよい。
別な価値にいつ気が付くか、行動に移すかどうかで、人生自ずと変わるものだから。

         

東日本大地震が起こる3日前(3月8日)、このブログをスタートさせた。
数日後に大惨事が発生するなどつゆしらず、なんとも暢気にミツバチの巣箱を設置したことを記している。

このブログは震災とほぼ同じで、ちょうど3年ほど経つことになる。
公開した投稿は本投稿で570本となった。
ブログ開始3年を少し前に、皆さまが開いてくださった回数はちょうど80,000回を超えた。
(⇨小生が開いた分のページビューは数字としてカウントしない設定にしてあるのでまさに皆さまのページビュー回数である)


記録を拾ってみると次のようになっている。
 開始日   2011.3.9
  10,000超え 2011.11.16 スタートより243日(〜243日)
    20,000超え 2012.5.24        443日(〜200日)
    30,000超え 2012.10.16        588日(〜145日)
    40,000超え 2013.2.9          704日(〜116日)
    50,000超え 2013.5.30          814日(〜110日)
    60,000超え 2013.7.25          870日(〜56日)
    70,000超え 2013.10.13          950日(〜80日)
    80,000達成 2014.2.17                1077日(〜127日)

単調に思えるここの生活ではあるが、感動の瞬間は日々あるので伝えたいことは山ほどある。
ブログ更新が最近はちょっと怠け気味であるが、以前のように戻したい(と思う)。

単なる田舎の日常描写と、時折マニアックな佐竹氏についての妄言であるにもかかわらず、これだけの回数、人の目に触れたと言うこと、である。不思議な気がする。
でもしかしこれは実に畏れ多いこと。・・・ありがたいことだ。
(たとえその回数のほとんどが、親戚・縁者が様子眺めでアクセスしてくれているものであったり、友人や知人が(ブログ内容に関係なく)我が消息を確認するためだったり、興味本位で開いてくれているものであったとしても、だ。)
80,000といわず100,000でも、さらにそれ以上でも、懲りずにお付き合いください。

2014年2月13日木曜日

西金工臨 走る

『西金工臨』という単語がある。『さいがねこうりん』と読む。
一般的に広く使われるようなものではない。

これは『西金工事用臨時列車』の略である。
西金とは水郡線・西金駅のこと。
つまりは西金駅から運行される工事用の臨時列車のことで、通常は赤いディーゼル機関車が上皿付きの黒い砂利運搬車両を牽引している列車だ。沿線住人であればたいてい目にしているはずだ。

西金駅は極めて小規模の駅であるが、その筋のマニアの間ではつとに有名である。
旅客駅としては1日の平均乗車人数は60人程(2005年の統計:Wikipediaによる)の小さな駅だが、ここは砂利・砕石の積み出し駅として有名だ。
(⇨西金駅が開設に至るまでには紆余曲折があって地元民の大騒動があった。水郡線の数多い駅の中でも特異な駅だろう。この話はまた別の折りに記したい)

ここでは砕石運搬専用の貨車(ホキ800形貨車)とそれを牽引する赤いディーゼル機関車(DE10)が見られる。
  ホキやらDE10やらの詳細はこちらを見て欲しい ⇨ 水郡線を走る車両

鉄道マニアでも『撮り鉄』の人たちにとっては、これらの車両に砕石を積むべく操車場で作業している場面や、編成車両が久慈川沿いの山裾を走る姿はどうにもタマラナイ絵であるらしい。
撮影ポイントを探して線路脇の山に登ったり、久慈川の川縁に立ったりと涙ぐましい。
         
我が玉川村駅も通過(下り11:29 上り15:16)するので、この列車が間近で見られる。
ただ必ずホキ800形を牽引しているとは限らないが。
西金工臨 上り  野上原〜玉川村間
今日も砕石(バラスト)が何処かへ運ばれて行く
(水郡線は上りの列車はほぼ順光で撮影できる)
あまりに見慣れてしまっていて特別な感慨はないのだが、すぐ目の前を赤く巨大な鉄の塊が力強く通り過ぎるのは、やはり迫力がある。
         
西金工臨が運んだ西金産の敷石・砕石(バラスト)は、水郡線を始め関東各地において鉄道レールの下に敷かれている。
西野内の採石場のものと合わせて、奥久慈産の石が各地のレールをがっちりと支えているのである。
さらにこの周辺から採取された砂利(山砂利・川砂利)は、首都東京の戦後の復興期あるいは高度成長期において、道路建設用・建物建築用の資材として、そのかなり需要を賄ったという。
特に1964年(昭和39年)の東京オリンピック関連の工事においては貢献大だった。
(このことは、昨年2013年1月〜3月に常陸大宮歴史民族資料館で開催された企画展『常陸大宮の地下資源 〜 地域を支えた宝物〜』にて知った)

東京がいまのあのような近代的な姿に変貌できたのも、『西金』があったからこそともいえる。
『西金』なくして『東京』なし。すごいじゃないか『西金』。
         
願わくば、そんなRespectの目で水郡線・西金駅を通過する時(JR利用の場合)、国道118号線で西金駅脇を通過する時(自動車の場合)、西金駅とその川向こうの採石場とを眺めてやって欲しい。ただし、西金駅側の地上からでは採石場の様子はほとんど見えないのが残念ではある。
GooglMapの航空写真で見ると、南北500m、東西400mほどの巨大な採石場であることがわかる。あたかも外国の露天掘り石炭鉱山のようだ。
採掘により奥久慈の山が2つも3つも姿を消したようだ。
驚きはこんなところにもあった。

2014年2月11日火曜日

雪割りふきのとう 早春の味

先日降った雪が消えつつある。

我が家では、山裾の栗の林の下がフキの自生地。
よほど生育環境が適しているのだろう、勝手に生え、勝手に増えていっている。

残った雪の間から『ふきのとう』が姿を現した。

ふきのとうは好きな人と苦手な人が極端に分かれる。
えぐみ・苦み・香りは峻烈であるから仕方あるまい。
ほろりと苦いこの早春の野草は、ちょっぴり危険で神秘的な味を楽しませてくれる。

天ぷらにして食べるのが一番だが、このぐらいの黄色く固い蕾段階から、僅かに先が開き加減のころのふきのとうが、苦みも香りも良い。
この苦みは食味をそそる。それに消化液の分泌を亢進してくれる(気がする)。

だが摘めるような蕾はまだまだ少ない。
もう少し待ってからこの大人の味を堪能することにしよう。

2014年2月9日日曜日

稲株と雪 一瞬の静謐

立春を過ぎての雪。
寒気も去りやらぬなか、田一面に積もった雪がほんのわずか融け始めると稲株が姿を現す。
山間(やまあい)の空気はまだまだ冷たく、吐いた息は白く空を漂い、風は頬を刺す。

何の変哲もない田んぼに降った雪と稲株の風景だが、このキーンと張りつめたような大気の冷たさと静けさが、好きだ。

水稲の作業が始まるまでの一瞬の静謐。
不思議と稲株の根元から融け始める

2014年2月8日土曜日

セッチュウバイ

(先日は駄文で長編だったことから、今回は短く・・)
また茨城に雪が舞った。暴風雪警報まで。

         
雪の中に季節の花。雪中梅と言いたいところだが違う。
ロウバイである。

バイ(・・梅)と名前がついているがロウバイ科であり、バラ科サクラ属の梅とは全く違う。
花弁が蝋のような色で、かつ蝋月(ろうげつ 旧暦12月の別名)に咲くからこの名がついたと言う(中国の薬学の本 本草綱目による)。

寒いのは嫌いな性分である。
春が待ち遠しい。

2014年2月4日火曜日

常陸に降る雪 出羽秋田に降る雪

今日は関東で広く雪となった。
乾燥気味の日が続いていたので、程よいお湿りではある。

太平洋側に位置する茨城では、シーズン中に雪が降り積もることはほんの数回であるうえ、翌日には融けて消えてしまう。
雪は、当地のようなめったに降らない地方の人にとってはちょっと心待ちにしている季節の使者といった一面があるのだが、雪に埋もれる地域の人々にとってはもっと切実で、憂鬱なものであり、喩えれば『白い悪魔』であるのだろうから、あまり手放しでは喜べない。

          

いつも降り積む雪を眺めるとき、雪深い場所に不本意ながら移住していったある人々のことを思い出す。
他でもない。佐竹一門のことだ。移住先とは出羽国(=秋田県)である。慶長7年(1602年)のことになる。
なにしろ創建以来20代・470年も当地でしっかりと根を張り繁栄した一族である。
青天の霹靂であっただろうが、国替えは徳川からの絶対命令。とにかく引っ越さねばならない。
短期間のうちに一族郎党が慌ただしく出羽国へと移住していった。

          

以下少々マニアックな内容で、佐竹マニアの戯言である。
興味ない方は読み飛ばされるが良い。

この頃の佐竹氏は重臣佐竹三家(東家・北家・南家)、家臣団93家が主たるもので、家主、嫡子、主なる家臣とその家族が移動した。その他、学者、神官、僧侶、有能なる職人なども相当数移住したようだ。
移住した人数の明確な記録は無いようだが、数千人から1万人程度にはなったのではないかという推定もされている。

最初は東北の未開な寒村という先入観(・・・・当時としては仕方あるまい)から移住者を厳しく制限したようだ。
一族内でも親子間・兄弟間で残留組と移住組と対応が分かれた、敢えて分けた家も多かったようだ。

⇨ (以下全くの私見である)
余談だが、この時に領民のすべてが移住したわけでは当然ない。当地に土着していた大半の民は残留した。佐竹関係者でも残留組は多い。
県北部の各地にある佐竹氏の出城(高部城や小瀬城、東野城など)・館の周辺に住んでいた一族郎党の中には、普段は(平時には)百姓をしているが非常時となると槍・刀を持って城・館に詰め、臨戦態勢に入るという、『半士半農』の輩は数多かったはずだ。つまり前線守備防衛隊の一員である。このあたりでは城下(太田)ほどには兵農分離は恐らく進んではいなかったはずだからこのような形態の人間が多かったと思う。彼らは間違いなくそのまま残留した。
彼らは農業と言う生活の糧があり生活基盤が整っていたことと、当初の移住人数制限があったこと、秋田について行くまでの忠義を尽くすほどではなかった(上級家臣とは違って基本百姓であり自給自足できていたので主君に養ってもらっているという意識は薄かった)のかも知れない。

そういったことがあってか、この周囲には『わが先祖は佐竹家の家臣』と伝承している家がある。だが、それを裏付ける何かしらの資料が現存して確認できるような家系はごくごく僅かではあるまいか。都合の良いように言い伝えをしてきているにすぎないように思う。というものの、それらを嘘と否定するだけの用意も当方にはないのではあるが。
そして驚くことに、彼らの中には墓石の側面に『わが先祖は秋田移封の折りに当地に云々・・・』などとあたかも史実の如く彫り込んでしまっている家さえある。
百歩譲って仮に前述の郎党たちの子孫だとしても、郎党が佐竹家家臣と呼んで良いものかどうか。広い意味ではたしかに家臣だが・・。
あるいはまた別の見方をすれば、人的交流が今ほど広い範囲で行われていない時代。極めて狭い地域内の婚姻が主だったから恐らくどこかで佐竹傍系の誰かの血とは僅かには繋がってはいることだろう。とすればあながち嘘でもないともいえるが、なんとなくすっきりとしない。

事実だけ言うと、このあたりの墓地にある古い墓石で西暦1700年より古いものはまずない。現地でも確認しているし、『おおみやの野仏とその祈り』(大宮町教育委員会刊)においても確認できる。この江戸前期より前までは武家など余程の一部の家柄しか墓石を建てる事がなかった(文化的にも、経済的にも、あるいは社会の制度的に)からなのではないかと思う。墓が無いからそのような人が居なかったという証明にはならぬが、東野のこのあたりには、少なくとも名門に連なる一族がそこここにいた可能性は極めて低いと思う。伝承はあくまで伝承の域を出ない。

爺さんなどから佐竹一族の末裔とか家臣の誰それの流れを汲んでいるとか聞かされて自分も信じ込むのは良い。子に伝えるのも良い。
ただ確証もないのに家柄を誇示するような行為(墓石に断定して刻むなど)は、史実を歪曲してしまいかねない。そうして恥じないという姿勢、心根はなんだかちょっと悲しい。

          

いざ秋田に来てみれば広大な肥沃な土地であり、未開墾の平地も多く、更に移民を受け入れる余地は十分に残されていた。
そこで移住制限を大幅緩和したため、第二次移住者も相当数に上ったようだ。
ということもあってか、どれほどの人数が最終的に移住したのかは把握できないらしい。

そしてこれらの人々、雪や寒さに対する免疫はまったく無く、しのぐノウハウはゼロだったに違いない。
なにしろ雪と言ったら降っても翌日には消えるほどの僅かな雪しか知らないのだから。
移住後の初めて迎えた冬の、想像を超えた雪。寒さも半端でなかっただろうし、その辛さは如何ばかりだったか・・。なんと悲惨であったことだろうか。

新地での新しい生活に希望を託し、意欲に燃えて移住はしたものの、そのあまりの辛さに耐えかねて、病気になったり、あるいは常陸国に戻ったりした人も実は多いらしい。
いまでも彼の地の冬期は過酷である(・・と断定して言えるだけの実際の生活体験は無いのだが、ごく短期間の秋田滞在の経験はある。そう実感した)。

          

何年も前だが、秋田県内の佐竹氏関連の遺跡と図書館を訪ねるべく、各地を数回ずつ訪れたことがある。秋田の現地でしか閲覧できない図書館蔵の佐竹資料があったためである。
秋田市をはじめ、佐竹氏の有力家臣達が配置された大館、湯沢、角館、大曲、横手などなど。
それぞれの城下を歩いて見て回り、城跡にも立った。
眼下の街並こそ変わったものの、吹き抜ける風と遠く見える山並みは400年前の当時と変わりはない。
この山並みを、移住組はどんな思いで眺めたのであろうか。当地に眠る移住一世の彼らの声が聞こえたような気がした。

秋田・大館・角館・湯沢には厳冬期、雪の季節にも訪ねている。
佐竹氏が体験した思いを、兼ねてより我が身で経験してみたいと思っていたからだ。

そのときのことだ。乗っていた秋田新幹線が、秋田駅まであと少しという田んぼの真ん中で強風のためとして停車。それから1時間ほど経過して安全確認ができたので運行再開、という事態に遭遇した。(よくあることらしい)
その間、新幹線の車窓から見えるのは横殴りの吹雪のみだ。ガラスを叩き付ける雪の音が半端でない。
最初から面食らった。
訪ねた秋田の各地は、とにかく何処もが白一色だった。
移動に使った現地のタクシーも、地吹雪で数メートル先もが見えなくなり危ないため道路脇に車を寄せてしばし停車という経験もした。すぐ前の車のテールランプも見えないのだった。
地元の吹雪に慣れた運転手でも危ないと判断したようだ。その時にいろいろ話をしたのだが、どうやらこれが冬の日常らしい。
やはりこのような実体験しないと理解できない『雪のすごさ』である。

          

これらの街の中でも、県北に位置する大館には真冬を含め3度ほど足を運んだ。
小生ちょっとお気に入りの場所である。
常陸大宮市小場にある小場城を長く本拠地とした佐竹家臣の小場氏とその一族が移り住んだ地である。常陸大宮市とは縁が深い。
大館城下には、時の小場城主・小場義忠の寄騎として部垂衆も数多く移住した。
部垂衆とは、移住の62年前(1540年)に佐竹宗家に滅ぼされた部垂城主・部垂義元の遺臣たち。主が滅ぼされた後も寄騎として佐竹本家ならびに小場家に仕えた。
部垂と呼ばれた旧大宮町市街地部、城跡近在に居住していたためこう呼ばれている。(部垂義元は佐竹宗家に近い佐竹一族の有力者である。部垂に居住していたため名字とした)

大館市内には、この部垂衆が移り住んだと言う『部垂町』という地名もあり、そこには部垂義元を祭神とする『部垂神社』が鎮座する。
始祖である新羅三郎義光以来一千年に及ばんとする佐竹氏の歳月の中で、神様として祀られている人物はこの義元ともう1人だけだ。極めてレアなケースなのである。
(もう1人は始祖・義光の三男義清。甲斐武田氏の祖に繋がる人物である。山梨に彼を祀った義清神社がある)
それだけ義元は家臣や領民から名君として、絶大な信頼と敬愛を受けていたということだろう。
だからこそ、移住後もそこにかつて自分たちが住んでいた町の名を付け、かつての殿の神社を建立したのである。
常陸の国から遠く離れた地に来ても、自らの出自の地を記憶に留めたかったに違いない。
名門佐竹の家臣としての矜持だろうか。
今も地名は残されており、義元が神として崇敬されているという歴然とした事実。
移住した彼らの思いは400年以上経った今も引き継がれているとは言えまいか。

大館城址と部垂町・部垂神社は市の中心部にありその距離は400mほど。
だが、これらがある場所からJR大館駅は2キロほど離れている(というか、後に国鉄の大館駅が市街地の北の外れに作られたのだろう。最寄りの第三セクター線の東大館駅からでも1キロある)。
あの日、結構な降雪の中、大館駅からタクシーで城址に向かった。
運転手には、ずいぶんと物好きな、ちょっと変わった怪しい人物と映ったに違いない(マニアとはそんなものだが)。
雪に埋もれた大館城址と部垂神社は、訪れる人も無くひっそりとしていた。

          

さてさて、いまごろの大館の町の積雪や如何に・・・。
常陸国・東野の玉川村駅に降り積む雪も、彼の地に降り積む雪とまた同じ雪である。だがなんとも可愛らしいレベルの雪である。
水郡線・玉川村駅の雪景色はこんな感じ
次の日には融けて元の風景に戻る