2014年3月31日月曜日

さて年度末だが

4月が新年度始まりの日本では今日が年度末。
一般企業でも官公庁でも学校でも、今日が一つの節目で、大晦日と同じくらい、この日を過ぎると気持ち新たになる。人事異動の方も多かろう。
ただ、それなりに社会的な責任がある方々にとっては最後の山場の一日であろう。

特に営業成績の数字に追われる方にとってはこの追い込み最終日はさぞ貴重なことだろう。既に計画の数字が出来た人も出来ないでいる人も、悲喜コモゴモ。
そのような胃が痛むような生活から身を引いて久しいが、あれだけ苦しかったくせに懐かしくもある。

営業数字だけではない、モノやサービスを修める期日という「納期」という点でも同じだろう。特に年度末までに仕上げて納品して検収を受けOKが出ないと、会社そのものの信用に関わることになるし、売り上げ自体が繰越しになったりして影響は大きい。

かねてより工事していた県道102号線・東野東原地区の道路拡幅工事もこの年度末が納期であったようで、一昨日等はほぼ突貫工事のようで最後の部分の舗装を遅くまでやっていた。まだまだという感じであったが・・。
3/29  舗装工事が佳境に入っていた
片側交互通行を強いたため随分と待たされた車も多かったであろう。その甲斐あってか昨日にはすっかり出来上がり快適な道路に変身していた。
3/31 工事関係者は路面の最終掃除の人だけ
最終日の今日にもきっと県の検査が入るのだろう。先ほど通った時には何人もの作業員が箒で道路の砂利を掃いて(清めて)いた。
最終の掃除に余念がない
出来たばかりのまっすぐな道路は気持ちが良い
社会的な責任というのは果たして当然だが、貰う報酬に比してほとんどの場合大変な苦労が伴うものである。

農業はその点、納期というのはわりと緩いほうだ。生産物の売り渡しに他者が関わる部分だけは約束ごととして守らねばならぬが、そのほかはまあ大体で(割といい加減で)良い。
あまり厳密にしたところで天気により左右されることが多いので、お互いに了解がある。
だからと言ってすべてがいい加減な訳では決してない。
         
4月が目前となったため、種籾を水に漬けて、消毒を兼ねた発芽誘発の作業に入った。
数日間浸して芽が出やすい状態にまでしたうえで、苗トレイに播種する。
約ひと月の間、5月の連休の田植えまで、ビニール温室内で育苗。毎日の散水と温度管理が欠かせない。
かかる作業が負担であるがために、農協から稲苗を買う農家も増えた。
頼んだ日に頼んだ量の苗が届く(納期はきっちりと守られる)ので、楽といえば楽だが、我が家ではまだ心理的抵抗があるため頼まずに自家で苗を作っている。

このあたりでは農協から苗を買い、田んぼを耕す・代掻きをする作業も農協に頼んで、田植え・稲刈り・脱穀も農協、販売も農協、農協に農作業のほぼすべてを依存する農家が増えつつある。自身の関与は期中の僅かな管理だけとなる。農業の姿が変身しつつつある。

こうなると単に自分名義の田んぼを農協に貸しているのとあまり変わらない。農家としての存在意義はどこにあるのかという疑問もわく。
このあたりにTTP云々の大きな問題以前の零細農家が抱える構造的な問題点がある。

あと10年もしたら、この田舎の風景はまた違ったものに(もっと寂しいものに)なっていることだろう。
年度を越えられない、農家が今すでに多すぎる。
それでも春は巡ってくる

2014年3月29日土曜日

田起こしを始める

今日は車の足元の衣替えにいつもお世話になっている市内のタイヤ屋さんへ。
冬タイヤから夏タイヤへ。

手際の良さに感心しながら眺めていたら、ものの10分もかからず終了。
この間、続々と交換のお客様が入ってくる。
皆そろそろ変え時と考える時期であるようだ。
         
明日はまた天気が崩れるという。
晴れているうちに・・と田起こしを開始した。
また今年も田んぼの作業が始まった。

2014年3月25日火曜日

水郡線に再びイベントSL・・・との情報

常陸大宮市には超ローカル新聞である『大宮新聞』なるものがある。
大宮新聞
新聞と名が付くがタウン情報チラシといった風の1~2枚のペーパーである。発行部数は不詳だが、誰でもが普通に目にするものではないようだ。
大手新聞が取り上げることはまずないであろう記事、つまり市内のホットな話題やら市議会の詳細な内容などが主だ。そこに特色・存在意義があるといえる。
         
この『大宮新聞』の最新号平成26年3月24日号に、3/18~19の市議会の議員質疑が掲載されている。
その中の一つに注目すべき内容があった。
野上議員より、地域活性化関連でSL運行について質問がなされ、市側の皆川政策審議官より次の回答があった。
『水郡線全線開通80周年を機に県と沿線市町村が連携してSL運行を計画している。確認が取れている概要について申し上げる。運行期間は12月。運行区間は水戸~常陸大子。前回は運行ダイヤの関係上実現しなかった常陸大宮駅への停車、蒸気機関車による往復運転を要望している』

詳細はこれから決まるようだが、今年12月にSLを水郡線で走らせることは決まったようだ。
         
またあの異様な騒ぎが繰り広げられるのだろうか。
撮影スポット周辺の人家・畑等敷地内への勝手な立ち入り、迷惑駐車、線路内立入り撮影(前回はこれで運行が大幅に遅れた)・・・。傍で見ていて呆れるほどであった。
とにかく地元民が負担せざるを得ない負の面ばかりが目立った前回SL運行である。

さらには、JR東の社員の方も数多く動員され沿線警備に当たったと聞いた。沿線市町村役場の方々もまた同様らしい。
かかる打ち上げ花火は見た目は良いが管理が高くつく。しかもこれも税金である。
何もしないよりはましだが、結局は費用対効果=CP(Cost Peformance)ということになる。
前回の反省に立っての学習効果を期待したいところだ。

2012/11/30撮影

2014年3月24日月曜日

蕗天

まだまだ緑が少ない野の地面に、薄緑色の頭を出しているフキノトウ。
いたるところで摘めるようになった。

春の野に出でて若菜摘む・・・オッサンの武骨な指は不粋だが、摘んで天ぷらにしてさっそく夕餉に。
梅が盛りで桜はまだだが春をまずは味覚から。
言葉は要るまい。これだけで既に立派なご馳走である。

今回は『ご・ち・そ・う・さ・ん』。。
フキノトウもちろんサツマイモもゴボウのかき揚も好きだ

2014年3月18日火曜日

春一番 ♪

今日の関東地方は春一番の強風が吹き荒れた。
巻き上げられた砂埃で空が黄色く霞むほどで、たいそう酷い情景ではあるが、気温もぐっと高くなり、これでやっと春が来るぞという皮膚感覚だけはうれしい。

春一番と言う言葉からは、小生などはどうしても往年の人気アイドルグループ『キャンディーズ』のヒット曲『春一番』♪をつい思い出してしまう。
われわれ50代半ば世代がかつて青春を謳歌していた時代、昭和51年の曲だ。
人気絶頂時の『キャンディーズ』は、いまのAKB48の人気よりもすごかったのではないかな。そして人気絶頂の中でいきなりの解散宣言。
一時代を彩り、強烈なインパクトを残して吹き抜けていった歌姫たちだった。
         
今日はまた高知でソメイヨシノ開花との報あり。
これから慌ただしく桜前線が日本列島を北上する。
まだかとソワソワ待つひと、咲いて歓喜のひと、散って惜別の情のひと。
各地で、桜の魔性に魅了され魘(うな)された人々の酔狂の乱がはじまる。
日本人の『非日常スイッチ』をONにさてしまう花だ。

業平風に『絶えて桜のなかりせば 春のこころはのどけからまし』と言ってみたいが、そうであったらそれはまた寂しすぎる。
3年前から山に植樹してきた各種桜の開花が待ち遠しい。
小生もすでに魘されている一人だ。

2014年3月10日月曜日

3・11の教訓と東京五輪

明日3月11日は、どの新聞紙面もテレビも『3・11』で溢れかえっているはずだ。なのであえて今日、この内容で記したい。
         
『非常事態』が起こるとする。
それは大きな衝撃を与え、我々は戸惑う。
そして、その事態にどのように対処するか、問いを繰り返すこととなる。
その過程は、多くの場合何らかの答えらしきものが出るような、出ないような、妙な状態である。特に個人の場合には、結論を誰かに求められたり、その期限を突きつけられたりすることが無いためにうやむやで、結論は先延ばしだったり、実行すると決めても対応はズルズルになってしまう。
そしてほとんどの場合、その問いの繰り返しはいつしか風化して、自然消滅状態もしくは停止状態となってしまう。
過去の歴史の一コマに組み込まれ、はるか遠くから眺める風景になってしまう。喉元過ぎれば熱さを忘れてしまうのである。誰しも経験あることだろう。
どんな悲劇や困難も時間の流れの中で記憶が希薄になり、次第に忘れ去られてゆく。あるいは語り継がれる物語となる。生々しい体験から生じ、共有された感情は残念ながら失われてゆくのが必定なのであろう。
これは人間が長いことつらい状況に直面すると、心を次第に日常性へと立ち戻らせるため、過去の悲惨さを思い起こさないようにする、という人の持つ防衛本能とも考えられる。だからこそ生きていられるということも事実なのだが。
         
とてつもない悲劇は自然の中に生きている以上しばしば生じるし、しかも自然災害は繰り返される。その大災害から人々が立ち上がってゆく過程でも、同じように次第にその記憶を過去のかなたへと追いやり、次第に忘れてしまう。
東日本大地震「3・11」もこの例外ではない。
(自然災害ではないが、先の大戦の惨禍も同じようなものだろう)

こ難しい哲学的なことを言えば、自然災害ははたして神仏の意志なのか、それとも近代科学の知見に基づいて純粋に自然界の現象と受けとめればよいのか、この二つの考えは両立できるのか、私たちは『自然』とは何か、とあらためて問わなければならないだろう。
小生のような田舎の自然相手の生活であると、個人的には神仏の意志と考える方が精神のあり方としては近いものがある。
         
地震大国日本において何をおいても優先されるべきは、リスクの分散だろう。
他でもない、東京一極集中の危うさについて懸念である。
ちょうど「3・11」から3年経ったが、あれから後、首都直下型地震の可能性は再三報道されているが、一極集中の是非はほとんど議論にならない。
さらに、「3・11」の際の東京大混乱の記憶も人々の記憶にまだまだ生々しく残る中で、東京で五輪を開催することも決まった。

五輪は東京一極集中をより加速させることになるはずだ。
東京へ更なる巨額の資本を投下してインフラ整備がすすめられる。今表面化してきているいろんなインフラに起因する矛盾もある程度解消されよう。きっとより快適な街に変化するのであろう。そうなるとますます各種機能も人も情報も東京に集中することとなる。
東京だけが歪(いびつ)にリスクともに巨大化してゆくという危うい発展が続く。
日本国民、特に直下型地震の想定地域に住む方々は、学習効果がないようだ。
先の東日本大震災は、東京に比べたら人口密度がずっと低い地域で、諸機能も東京の比ではない場所だったから被害はあれで済んだのではないか。加えて被災後の混乱の中にあってあのように秩序だって理性的な群衆行動が見られたのも、彼の地だったからこそできたものだろう。地域コミュニティが都市部よりはまだまだ機能しているからかもしれない。東京があのような混乱で済むとはとても思えない。

考え過ぎ?   偏った考え? 田舎者の僻み?    やはりどこおかしい。
         
物理学者であり随筆家でもあった寺田寅彦は、「災害を大きくするように努力しているものはたれあろう文明人そのものなのである」と、人工の造営物増大の危うさを説いている。今日の文明とは比べものにならない1934年(昭和9年)のことである。
関東大震災の調査も彼は学者として行っている。震災後に進められている復興を見ながら、彼は思うところがあったのであろう。慧眼である。

防災と抱き合わせで五輪は準備すべきだといった評論家の意見はもっともながら、はたしてそれで良いのだろうか。根本的な解決にはならぬと思う。余りにも不自然な東京だから。
どう考えればいいのだろうか。小生のような貧弱な頭で考えても、地方への機能分散しかないと思う。目先の利害を捨ててすぐにでも行動に移すべきだと思うのだが。

だいぶ前、国の方針として(お偉い方々・有識者が集まり検討したはずだが)、首都機能を栃木県の那須地区あたりに移転させるという結論を出したと記憶している。案の定ウヤムヤになってしまっている。つまりは、自然災害は記憶の彼方に去ってしまっていて『まあ大丈夫なんじゃないの・・しばらくは。根拠はないけど…。』といったところなのだろう。
予想通り首都に直下型地震が発生し、甚大な被害を蒙る時が来ても一時のことだから良いのだろうか。いずれ記憶の彼方に追いやり忘れてしまうから良いのであろうか。我々の子や孫、そのまた子の代の事かもしれないから良いのだろうか。よもやそんなことはあるい。
目の前の不都合なことや困難なことに目をつぶるのは容易いが、単なる問題先送りでしかない。
         
自然の猛威を可能な限り回避する科学の知恵ももちろん必要であるが、あまりに現代人は自然への畏敬の念、祈りを忘れてしまっている。高慢、傲慢、あまりに尊大である。自然を克服できた・できると考えたとしたらなんとも不遜である。思い上がりも甚だしい。
現代人が自然を甘美なもの、心を癒やすものとみなすのは、都市型住民の求める景観としての自然に過ぎない。自然とはもっと厳しい。

この東京一極集中とそのリスク問題は極めて難しい課題だ。完全な解決などあるまい。だが、自然は待ってくれない。
できることから急いで進めることだ・・と思う。国会移転だってかつてあれだけ叡智を集めて決めたのではなかったか。。大騒ぎして決めたものを全く反故にするのだろうか(移転に反対の勢力も確かに存在するだろうけれど、このままでは大いなる税金の無駄遣いだったということになる。それを許す国民にも反省は必要だろう)。

非常事態の発生は避けられないのだから、個人でできること(事前のサバイバル準備)を怠りなく実行して備える。
そして非常事態が不幸にも発生してしまったら・・。
幸いなんとか生き伸びられたとして、便利で快適な都市生活神話が崩れた街で、さて次どうする??

行動は、そうなってからか、そうなる前にか。。
         
田舎は何処も似たようなものだが、ここにも『ひとり農業』のテーマソングの感がある井上陽水「少年時代」の歌の心象風景が広がっている。
ひとり農業、みなさんもご覧になってますよね。。あんな場所です。
  も
  も
も。

2014年3月8日土曜日

金スマ 大いなる農業プロパガンダ

TBSテレビ・金スマ。
このバラエティ番組の中で、『ひとり農業』コーナーに関心がある人は多い。斯く言う小生も、(地元常陸大宮市が舞台として取り上げられる唯一のメジャーTV番組ということもあるが)そのひとりだ。『ひとり農業』を取り上げるときは、ほぼ毎回視聴している(ひり農業を取り上げない時には見ていない。当日朝刊のTV番組欄を見て今夜は『ひとり農業』の特集があることを知るのが常だ)。
         
真冬の農業は動きが乏しい、つまりはテレビ映像としてはインパクトに欠ける時期だ。
この時期を特集した『ひとり農業』だったが、2014年3月7日放映分はおもしろかった。

いつもの農作業や、そこでの生活のいろいろの話(・・ミツバチ・・蝋燭作り・・奈良漬け・・ケンチン蕎麦・・花粉症に効くというジャバラ・・)もそうだが、ヘルムート氏結婚!! の断片紹介映像の引っぱりで最後まで見てしまった人も多かったに違いない。
一昨年の秋に我が家でも蜜蝋を作った。その際の写真。
さすがに蝋燭までは作らなかったが、化粧石けん大の塊ができた。
制作した新しい巣箱の内部面にこれをたっぷりと塗り込んだ。
毎年作付けする野菜などの作物も、チャレンジする作業の数々も、誰しもができることばかりではない内容だし、生業としている専門農業ではないことからのやっかみやら非難も一部にはあるだろうが、田舎生活を愉しみ苦労する姿を紹介する企画としては秀逸である。
(ただ。細かなことをいえば、放送では『ニホンミツバチの巣に糞も含まれているので・・』とあったが、成虫は外で糞をするし幼虫は完全消化であるので、蜜の入った巣に糞は含まれていない(⇨日本蜜蜂の養蜂を始めるときの注意点)。なので巣そのものも食べられる。視聴者に誤解を招く懸念があり残念だ。・・などつっこみはある)
         
衰退が叫ばれて久しい中山間地の農業。
TPPの行方も、こんな田舎の地にも及んでくることになるのだう。
なにもしなくても斯様に人が減り、高齢化が進み、過疎になる場所。
こんな場所でも、いやこんな場所だからこそできる生活の素晴らしさを、農作業の紹介を通して世に強烈にアピールしていってもらいたいと思う。かかる農業プロパガンダは大賛成だ。
1人のファンとして(ヘルムート氏の結婚もそうだが)声援を送りたい。

農作業は毎年同じ繰り返しという一面もあるが、自然条件は全く同じと言うことはないため、日々挑戦という一面もある。そして、いくらでも新しいこともチャレンジできるし、自然の中で発見や感動もあるので、番組としてはいくらでも続けられるだろう。
親御さんの同居、結婚・・まだまだ農業以外の話題はも事欠かないようであるし、このコーナーは安泰かもしれない。しばらく続きそうで楽しみだ。

暖かくなったら、迷惑にならないように、かの地を訪ねてみようと思う。

2014年3月7日金曜日

ネコヤナギにミツバチ

季節は確実に巡っている。

まだ残る朝晩の寒さで、ここ数日は風はたいそう冷たい。
だが、日差しにはたっぷりと春の気配。

我が園の一角のネコヤナギの花は、今盛りと咲いている。
決して目立たない色合いだが、銀色の毛がふんわり膨らみ、ミツバチ達を誘(いざな)う。

今日も忙(せわ)しなく蜜と花粉を集めているミツバチは、何処の巣から飛んできているのであろうか。
花粉団子を脚に付けたミツバチ
昨年の今頃はまだ我が巣箱にもミツバチが居たんだ・・と想いに耽る。
この蜂たちの一部でも我が巣箱に再び入ってくれることを願いつつ、じっと彼らの愛らしい姿を見入っている。
ハチの分蜂の時期まであと少しだ。

2014年3月4日火曜日

われわれ世代の責任

たしか2~3年前の毎日新聞の読者投稿だったと記憶する。
電車内の騒がしい高校生の行状に出くわした際の心の逡巡と、その背景に関する深い洞察の文章が載っていた。小生と同世代の男性からの投稿で、激しく共感したので良く覚えている。題名は忘れたがおおよそ次のような話だった。
         
高校生が電車に乗り込んできた。やがて始まった彼らのおしゃべり。周囲を全く気にしない大きな声、品性のかけらもない話し方、下劣な内容。
次第にエスカレートするその行状に、隣席の老夫婦が苛立ち、何度か腰を上げそうになるが奥さんがそれを制止する。自分も同様に思いながら、何もできずにいた。


老夫婦は厳しく子供を叱りしつけて育ててきた世代。
彼らの世代に育てられた我々はそうして公共心を叩き込まれた。
この高校生たちの親もきっと自分とは同じ世代。
だが、この高校生は親からも何も教わらずにきてしまっているのだ。


老夫婦世代、我々世代、この高校生たちの世代。この3世代のうちで、一番罪深いのは教えてもらった大事なことをきちんと次の代に伝えられていない我々の世代だろう。
先代までが培ってきたものを使い果たしただけでなく、後世へのツケだけ膨らましてきた我々こそ猛省すべきではないのか。

下車するときに老夫婦に「すみませんでした」と頭を下げた。
         
小生もときどきJRに乗る。
水郡線の列車内でこの投稿主と同じ体験と思いをした。

その日、同じ車両に男女高校生が多数乗り込んできた。
すぐに4~5人の男子高生グループが輪になっておしゃべりを始めた。
その声量は常識を逸し、内容は品性下劣でとても聞くに堪えないものだった。
全員服装はだらしなく、小生のような許容範囲の広い(=つまりは普段は他人の格好の事などどうでもよいと考えるいい加減な)人間にも嫌悪感を抱かせるに十分過ぎるものだった。妙にずり下げたズボンは滑稽でさえある(決してローライズのズボンではない)。下着もマル見えだし、裾はボロボロに擦り切れなんとも汚らしい。加えて、年齢に不相応な大きく厚い札入れ(財布)を尻ポケットに差している。これを格好いいと感じる彼らの美意識が全く理解できない。(ここでは過度の半ケツがどうやら流行りのようだ。・・・水戸近辺・水郡線だけで観察できる珍奇ファッション。同じ常磐線でも東京寄り・石岡以南では見られない)
野卑というか粗野というか、知性をもった生き物とは思えない。
誰にも何も教えてもらってこなかったんだろうなぁ・・、可哀そうな連中だ・・と、不憫に思えた。
あの身なり格好ではまともに学業を修められているとは思えない。
そして、かように見るに堪えない汚らしい姿で家を出てゆく子供に異を唱えない親もどんなものなのだろうと思う。

混雑した車内で輪になって通路を塞いでいる。床に座り込むものもいるし、さらには寝そべったりする猛者までいる(そこが車内トイレの入り口だったりしても構わないようだ)。
傍若無人とはこのことだ。我が物顔の振る舞いが酷い。
他に人がいることなどは頭にこれっぽっちもないらしい。
他の乗客は皆一様に無視を決め込んでいるが、それぞれの顔には困惑がはっきりと出ている。下手に関わるとろくなことはないという大人の対応である。
まともな同世代高校生もまた然りである。彼らを別人種とでも思っているのだろう、距離を置き全く相手していない。

騒がしい彼らに近い座席に座っていたある老女が、携帯電話をいじりながらだらしなく床に座り込んでいるひとりの男子に何やら声をかけた。あまりの姿を見るに見兼ねたようだった。「床は汚いんじゃないの・・」とでも言葉をかけたのだろう。その老女の声に振り向いたようだったが、立ち上るでも姿勢を正すふうでもなく、何の言葉も返さずに、また携帯電話に目をやりいじり始めた。
そこには目上の人に対する敬意などは全く感じられず、老女の存在そのものを意識できていないふうであった。老女の顔は呆れたようにも落胆したようにも見えた。彼の無表情の顔と虚ろな目がやけに印象的だった。

そしてまた女子高生グループも座り込むことを含め似たような行状であり、車内はあたかも動物園の猿山のような状態である。
騒音はどんどんエスカレートする。
目の前に躾のできていない野生猿の群れのごとき集団。小生もいい加減ウンザリすると同時に、堪忍袋の緒が切れそうになる。
うるさいぞ、お前ら。静かにしろ。他のお客に迷惑だろ!!・・・」と。

頭の中ではなんとも勇ましい自分である。
情けないが、何もできない。何も言えない。
昨今、下手に注意等すると刺されたり、殴打されて打ちどころ悪ければ死亡したりするご時世だ。ここは目をつむって耳を塞いで・・・。

いくつか駅が過ぎ、これらの高校生たちは何もなかったかのように三々五々下車していった。車内に静寂が戻った。
実際に声をかけた老女がいてくれたことに救われた気がしたが、それ以上に何も出来ずにいた自分が恥ずかしかった。

恐らく毎日同じような情景が繰り広げられているのであろう。車掌も含め苦々しく思っている同輩は多いに違いない。
我々が列車で高校通学していた時代(昭和50年あたり)にも変なやつはいたが、ごく一部であったと記憶している。
とにもかくにも、今の彼ら高校生世代の劣化が激しい。
         
今やオヤジ・オバチャンとなった我々世代が、社会人となり、子を産み育て、社会の主体となった昭和50年代から平成20年代にかけての30年ほどの時代は、たしかに便利で豊かな世の中にはなった。だが、我々の親世代までたしかに引き継がれてきた素晴らしいものが、この間に急速に失われた(次世代に引き継げないでしまった)ことだけは間違いない。
高校生・大学生など若い者をダメだというのは容易い。だが、彼らをしっかりと教育できなかっただけでなく、巨額の国の借金と高負担(少子高齢化)を積み増ししてきてしまっている我々世代こそが、一番ダメで猛省すべきに違いない。
全く投稿主と同じ思いだ。今更だが、責任は重たい。

さて自分の場合は、わが子に幾許かは何かを引き継げているのだろうか・・。
テレビのバラエティー番組に屈託なく笑っている薄ぼんやりした我が子の横顔を改めて眺めてみたが、自信はない。
世間様に自慢できるほどのものは何も与えられずにきてしまったが、あのような迷惑だけはかけていないようだ。それがせめてもの救いである。
これは某月某日のJR常磐線の車内風景
三者三様に床に座り込みスマホをいじる高校生。
玩具を与えられ、ひたすら遊びに耽る猿のようだ。

●ピンクのパーカー&スウェットジャージ姿の彼女(これで通学しているらしい)
●青リュックで濃紺制服姿の彼女(スカートだったが胡座をかいて座った)
●ドアにもたれかかる彼(一見まともだがシャツは派手な柄物。ズボン裾はボロボロ)
 床の白いゴミもまた彼らの所業。
 先ほどまで大勢の仲間と大声で騒いでいた彼らである。
 奥にいるまともな高校生たちはこの種族とは一線を画し、近寄らない。