2018年1月9日火曜日

便利過ぎの不幸

たまに汽車・電車にも乗る。そこで出くわす不思議な光景。
老若男女・ほぼ全員(ただし後期高齢者層は除く)がスマホを片手に小さな画面とにらめっこして指を動かしている。たいていは無言。自分の世界に没頭している。最近では当たり前の風景なのかもしれないが、異様に思えて仕方ない。あたかもマインドコントロールされている人たちのよう。例えは悪いが『カルト宗教の瞑想の時間』のようにも『オモチャを与えられた猿』たちにも見えてしまう。
これが他にすることが無い乗車中だけの習慣であればまだ良い。この人たちは他の日常の場、たとえば家族や仲間との食事中でも、就寝までのベッドの中でも、トイレの中でも、ちょっと信号待ちした車の運転席でも、見境なくいじっているのではないかなぁと心配する。触っていないと不安で仕方ない、いわゆるスマホ依存症、もしくはその予備軍かも知れぬ。
小生もiPhoneユーザーだが、あのように黙々と長時間、頻繁に使うことはまずない(野外で動いている時間の方が多いためだ)。なので皆が一様に同じことをしているあの車内風景には強い違和感がある。

ふた昔ほど前までの車内風景といえば、仲間と会話する、読書(勉強)をする、居眠りをする、外の景色をぼーっと眺める、の何れかだったはずだ。今時の高校生は車内で仲間と群れてはいるが個々がスマホを操作していて、会話らしい会話もない。親しい仲間のようで実はみな仲間はずれされるのを極度に怖れているのだろう。
バギーに幼児を乗せたママもひたすらスマホをいじっている。子供が何か言っても生返事だ。かわいい赤ちゃん時代の姿は今のこの時期だけなのにもったいない。もっと子の目を見て話しかけてやれば良いのになぁ。フワフワの手やほっぺの感触なんかあと少しで味わえなくなるのだから。親と子、双方が不憫でならない。こういった人たちがSNSに疲弊もし、さらには心が病んで行くのだろう。一様にそちらの危うい方向に突き進んでいる気がしてならない。たかだか20年やそこらで、かくも人々の性向を変化させたものはスマホくらいではないかな。
果たしてこの便利な機械はこの人たちに幸せをもたらしているのだろうか?

かつてテレビが普及しだしたころに評論家の大宅壮一は「一億総白痴化」という言葉を使って、テレビばかり見るようになると人間としての創造力や思考力が低下してしまうのではないかと危惧した。テレビも確かにそうだったが、いままさに同じ状態だと思う。パソコン・スマホによってわれわれは情報は得たがもっと大切な教養を失ったようだ。
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便利になるとともにそれに比例して世の中の動きも速くなった。この流れは逆行することは無いだろうから、今後もますます便利になりせわしなくなるのは間違いない。ますますわれわれは追い立てられる日常になる。
IoTだAIだと、素晴らしい世界が広がるように喧伝されているが、その陰には人間が阻害されてゆく現実があろう。実際に大手の金融機関や保険会社ではAI活用で事務を削減し、今後数年の間に各社数万人規模で社員を削減すると報じられ既定路線らしい。終いには人間が働く場所がなくなってしまう。

他人に無関心で、無表情に際限なくスマホをいじり、薄っぺらい思考。刹那的な快楽にのめり込む人々。人間があるべき自己の本質を失う状態になってしまった。人間を幸せにするために作られたコンピューターが、人間から離れて逆に人間を支配するような存在になってしまったようだ。
本人たちが気付いているかどうかはともかく、かえって余裕が無くなってきていて、せわしなく追い立てられている、ココロに余裕がなくなっている。悪魔に忍び込まれココロを蝕まれてしまっているみたいだ。
他人のことだから別にどうでもよいことだが、本人が自覚がないのが不幸で哀れでしかない。
悪の元凶か、夢の機械か・・使い方次第で幸せにも不幸にも
かように世の中が便利になって一番困っているのが、ホントは人間だろう。ちゃんとした情報リテラシー・端末リテラシーを身につけないでいると猿以下の厄介な生き物に退化してしまう。多くの民は、もっと深刻化してもはや手遅れとなったときになってやっと気付くのだろう。一度退化した機能を取り戻すリハビリテーションには艱難辛苦を伴うのだがなぁ。

小生はそうはなりたくないので、いまの生活において、敢えて天邪鬼に徹している。便利機器の「良いとこ取り」だけして、あとは敢えて不便さを享受するし、自分の頭で考えることを常としている。現にスマホのウィジェットは電話・メール・カメラなど数個しか使っていない(他は不必要なので使用方法を学ぼうともしない=使えない)。
どちらかといえばストイックな生活になるが、機械は抑制的に活用する、これが理想だと思う。なんら難しいことは無い。流されないように心掛けるだけだ。以前はそうして支障なく生活できていたのだからできないはずがない。
これが情報端末取扱いの我が鉄則であるが、里山の農的生活はこれが当たり前に実践できる。ほとんどの一次産業ではどうしても人に依存する部分は大きい。刻々と変わる自然現象を相手に、過去の経験や学んだ知識から対策を工夫し、手間をかけて対策を講じ、なんとか良い方向にもっていこうとする。情報は活用するものの機械任せにできない部分が多い。このことが農に携わる田舎生活の素晴らしさのひとつだろうと思っている。
こじゃれたスタバでiPhoneいじったりMac操作したりするより、ずっとオシャレでカッコいいと思う。実は豊かさって云うのは単純にこんなことなのではないかなと思う。
ついでながら、病んだ人たちの更生にも里山が秘めるパワーはきっと有効であるとも思っている。
このような時代であるからこそ、人は里山に回帰すべしと強く言いたいところだ。
里山ライフはいい。やはり結論はここに行き着く。

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